監督・脚本:イングマール・ベルイマン、撮影:スヴェン・ニクヴィスト、主演:マックス・フォン・シドー、リヴ・ウルマン、1968年、103分、白黒、スウェーデン映画、スウェーデン語、原題:SKAMMEN
交響楽団でヴァイオリンを弾いていたヤーン(マックス・フォン・シドー)とエーヴァ(リヴ・ウルマン)夫婦は、街から離れたところにある小さな島で、農業をして平穏に暮らしていた。街に作物を売りに行くときは、フェリーを利用している。
ある日、突然、上空を戦闘機が何機も飛んでいき、やがて二人の暮らす家の近くにも砲弾が雨のように落とされる。二人はおんぼろの車で逃げ惑うが、途中、車両が道を塞いでいたので、やむを得ず自宅に引き返す。
やがて人々は強制的に、街のとある建物に集められ質問されるが、夫婦と懇意である市長ヤコービ(グンナール・ビョルンストランド)により例外として扱われ、再度自宅に戻ることを許される。
その後、ヤコービは夫婦の自宅を訪れ、元々男女として親しかったエーヴァに、ヤーンのいないところで大金を渡し、温室に行き、話をする。ヤーンはそれを遠くに見るが、何もできず、自分の無気力に、ただ泣くだけである。
そこに、市長とは敵対する軍隊が現われ、ヤーンに拳銃を渡し、市長を殺すよう仕向ける。初め撃てなかったが、ヤーンはヤコービを殺してしまう。・・・・・・
特に信仰をもたず、政治的にも立場をもたない普通の人々である夫婦の生活を題材に、それでも、戦争というものが、いつの間にか人間の本性に影響するようすを描いている。
ベトナム戦争のさなかに撮られた作品でもあり、戦争に反対するベルイマンの心情が現われた作品とも言われている。
政治的にどちらが正しく、どちらが悪い、というようなことは言えず、ベルイマンもおそらくそれを承知で、本作品で描かれる戦争が、どういうきっかけで起きた、どういった戦争であるか、についての言及はない。
ただひたすら、この夫婦の生活や心情にかかわる範囲で、戦争というものの残酷さ・残虐さ・無秩序・暴力を描いている。
戦争という外部からの作用が、物的・心的に、この夫婦に、いかなる影響を与えていくか、あるいは、戦争により、どういったものが破壊され、変容していくか、それでもなお、変容していかないものは何か、・・・これらを問う映画であり、終盤、島から脱出することはできても、どこかに辿り着くこともなく、ボートの上でエーヴァが詩を口ずさむシーンでラストとなる。
二人のやりとりから、ヤーンの浮気により二人はしばらく別居していたが、今は元の鞘に戻っていることがわかる。一方エーヴァは、ヤコービ市長と昵懇であったこともわかる。二人に子供ができないので、エーヴァはヤーンに、医師のところに行って検査を受けてほしい、といった会話もある。
ベルイマンの映画において、夫婦の絆は常に強く、多少のことがあったくらいでは、簡単に崩壊しないのである。本作品のヤーンとエーヴァも、口論し合い、なじり合っても、それ以上にはならず、また元の状態になる。
冒頭は、朝、二人が目覚めるシーンから始まるが、この規則正しく平穏に暮らす夫婦も、気が弱く心臓をわずらっているヤーンのほうは、ヤコービを撃ち殺したあたりから、人間性に微妙な変化が見られる。それは、兵隊に家じゅうをめちゃくちゃにされ、愛用の高価なヴァイオリンまで壊されたショックも手伝っている。温室に、ユーハンという若い少年のような脱走兵がいたが、持っているライフルを奪い、逆に脅し、追っ払ってしまう。映像には出てこないが、ヤーンはユーハンを殺している。
恥というタイトルは、どういう意味か。戦争そのものか、戦争によって人格が崩壊することを指しているのか。ベルイメンの主張は、この両方なのだろう。
しかし、エーヴァはどこまでもヤーンとともにあるのであり、常でない状況であるからこそのヤーンの変容を、愛する者として、受けとめているのだろうと想像するしかない。
前半に出てくる、夫婦が食事をしながら仲睦まじく話し合う長回しのシーンは、すべて即興であった、と、リヴ・ウルマンが述べている。子供ができないので、エーヴァがヤーンに、怒らないでね、と前置きして、医者のところに検査を受けに行きましょう、というくだりである。即興にしては長く、また、カメラは定点で、ヤーンの肩越しにエーヴァを撮る構図である。
ベルイマンの他の作品同様、台詞にもフィルムにもムダがなく、どこまでもシリアスで、自らの主張をまっすぐに撮った作品である。
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