映画 『タロウのバカ』

監督・脚本・編集:大森立嗣、撮影:辻智彦、音楽:大友良英、主演:菅田将暉、YOSHI、太賀、2019年、119分、R15+、東京テアトル。


大森立嗣は、『ゲルマニウムの夜』(2005年)、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(2010年)で知られる。大賀(現・仲野太賀)は、『桐島、部活やめるってよ』(2012年)のバレー部員・小泉風助役であった。YOSHIは、これが俳優デビュー作である。


高速道路が交わるあたり、東京の堀切JCTか小菅JCTあたり下の河原や付近の広場を主な舞台とし、三人の行く当てのない10代の若者が、その行き先に戸惑う姿を、ほとんどを手持ちカメラと即興的なセリフで、ありのままに描き出そうとした作品だ。


タロウ(YOSHI)は、生まれてから一度も学校に通ったことがない、という設定で、エージ(菅田将暉)、スギオ(太賀)と、行動をともにしている。エージは高校生で、柔道部にいたが、兄と違い上達せず挫折し、YOSHIやスギトと日々を浪費している。スギオはエージと同級で、エージやタロウに比べれば、何ごとにも消極的である。

ある日、エージらは、エージと対立する愚連隊の吉岡(奥野瑛太)と争い、本物の拳銃を手に入れてしまう。・・・・・・


拳銃を手にしたことで、三人の行く先に変化が見え始める。拳銃を手に入れたことで心理的な葛藤を生じ、拳銃が重大なツールになり、最後には拳銃が<主役>になってしまう『銃』(2018年)とは異なり、本作品での拳銃は、三人の行く先を決定するきっかけとなるツールである。スギオは結局、その銃で自殺してしまう。


ではスギオ以外の二人に、結果はあったのか?

エージは、自暴自棄に走ることさえできないほどの無気力に囚われ、河端で寝そべるだけだ。そんなエージを見て、タロウは、サッカーに興じている少年たちのど真ん中に割り込み、空に向けて絶叫しまくり、エンディングとなる。


この作品のストーリー上の主役は、タロウである。学校に行っていないので、ひらがなくらいしか読めない、善悪の判断もほとんどない、常識や程度ということがわかっていない、中3あるいは高1くらいの少年である。そんなタロウのつるむ相手は、自然と、エージやスギオといったアウトローの不良高校生ということになる。

一方、それだからこそ、タロウは、同世代の普通の少年に比べ、よく笑う、よく叫ぶ、よく脅迫する、よくぶち壊す、・・・自らの限界を打ち砕き、外側に踏み出すために、方法論として彼には、そうした動物的な言動しかとれないのだ。そういう言動によって、かろうじてタロウは、<現実>に触れあっている。ピザ屋のバイクに乗ろうとし、何度も失敗してすっころぶシーンは、タロウなりに<もがく姿>を象徴している。


本作品は、単に、無気力で自暴自棄な時間を送る少年たちの<実態>を現わしただけの映画ではない。障碍者や知恵遅れの人々が冒頭やその他のシーンで何度か映るが、材を、社会的平均からすればどうしようもない少年たちに求め、その交流範囲に生じる社会的弱者の存在をアピールするのが目的でもない。タロウのような無教育の少年を産み出す育児放棄や、どういう場合でも強く出ることのできないだらしない大人たちを批判するのが目的でもない。

三人の少年たちが、通常であれば、生きていくうちに、自然と理解していくような、人の温かみや冷たさ、友情や愛情、好きや嫌い、生と死といったテーマについて、まるで、残酷にも、先端の赤くなった火箸をいきなり何度も肌に当てられるように、そのつど異様な熱さに反応して、飛び上がったり、悲鳴を上げたりするような心の中を、かろうじて、可視という手段(=映像)で、外側から総なめにした作品なのである。


監督が脚本を兼ねると、作品の良しあしはどちらかにはっきりと分かれる。本作品では、編集も監督が兼ねている。そうなると、どうしてもここは入れたい、ここまでは入れたい、という気分が作用して、結果的に尺が長くなる。観ている側としては、ここはこのへんで切っていいのでは?このカットはいらないのでは?とも思えるシーンが多くあり、90分でもよかったのでは?という人も多いだろう。

それをしなかった、或いは、できなかった、のは、切りたくない理由があってのことだろう。


ストーリーにメリハリがないので、退屈になるのは否めない。つぶやくようなシーンも多く、何を言ったか聞き取りにくいところも多い。一部、殴る映像と音が合ってない。

映画としてのエンテメ性にも乏しく、観賞するというより、観ることに付き合わされる映画である。

しかし、以上を了解したうえで、三人のもがける日々や、タロウのバカさ加減に、愛想を尽かすことなく、やさしく付き合っていけるのであれば、彼らを、ただのどうしようもない少年たちだ、と切って捨てることはできなくなるだろう。

そもそも、人間の日常など、大人であっても、だいたいにおいて退屈なのであり、バカの連続なのだから。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。