映画 『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』

監督・脚本:大森立嗣、撮影:大塚亮、編集:普嶋信一、美術:杉本亮、音楽:大友良英、主演:松田翔太、高良健吾、安藤サクラ、2010年、131分。


『ゲルマニウムの夜』と同じ監督なので、そこそこ予想はしていた絵であり、ストーリーもチラシなどでわかっていた。

いつの時代にもよくある話で、様々な理由で現状に不満のある若者が、その壁にどう向き合うのか、どう打破していくのかを描いたテーマ。こんな腐るほど語られてきたテーマを、「あの」『ゲルマニウムの夜』の監督が、男二人女一人を配して、どう映像でさばくのかを観てみたかった。つまり、前作と違い、通俗的なテーマなので、テーマ自体が個性になるという有利さが初めからない勝負に出たわけである。

 

主役たち三人に距離をおかず、その内側の鬱積物にまで手を伸ばしそれをえぐり出すという立場を貫いたのは前作と同様ほぼ成功したのではないか。

この手の映画は、要するに勢い心理描写いかんに依ってくるので、細やかな演出と俳優の演技力が不可欠である。主役であるケンタ役の松田翔太、ジュン役の高良健吾、カヨ役の安藤サクラ、三人の演技は大変よかった。若くはあるが鬱屈したものを孕んでいるわけで、その上での表情はよかった。ついでながら、重しになる脇役はベテラン陣でこれも問題ない。


常に、床や路上が映るカメラの演出は、話が宙に浮いたものでない意味をもたせているのだろうか。それ以外特別なものはない。むしろ、音の処理にわざとらしい演出が効いていて、それはけっこう評価できる。演出とはわざとらしいことをしかけることだ。

ストーリーの山となる、刑務所にいる兄(宮崎将)とケンタが向き合うシーンは、逆に凝った撮りかたを避け、二人の表情に対象を絞って正解だった。

この山のあとが問題だ。このテーマで、山は作られているとなると、そのあとをどうもっていくかは、わかっていながら難しかったと思う。そして実際、すっきりしない。

 

おそらく、もともとすっきりした結論などあるはずのないテーマなのだから、そのプロセス第一に考えているなら、北海道まで追いかけてきた先輩格の同僚(新井浩文)と向き合ったところとその処理で終わらせたら、すっきり感はあっただろう。

しかし監督はそうしなかった。いかにも制作途中で欲が出てきたと言わんばかりに、継ぎ足し継ぎ足しでシーンを重ねるから、観ていて飽きがくるしラストまで冗長に感じる。

よく解釈すれば、壁を打ち壊し、その向こうにある何かをつかもうと、兄のいる網走まで行くことになったわけだから、その兄に、向こうに何もないなどと言われて、自分でも一層壁に進んでみたくなり、蜃気楼のようにそこに何もないとわかると、また前へ進み、…これを繰り返していくうちに尺が伸びた、ととることもできるだろう。 


しかしそこまでやるなら、ラストのラストまで映像に残すべきと思うのだが、男二人は海に向けて水の中を歩きだし、カメラは小岩があるあたりの海原にパンしてそれっきりであり、女はまたまた車から追い出されてひと言ふた言それらしいことばをつぶやいたあと、その延長に音楽がかぶってエンドロールでは中途半端であり、もったいない気がした。

トラックや機材を盗んで旅に出ざるをえなくなる状況説明を、あれだけの脇役やセットを用意しながら、充分に描ききれていない。

現代の若者像を等身大に描くべく、旅の途中に廃材置き場のオジサンや障害者の人々を登場させるくらいなら、タイトルに言う三人の国をメタファとしてもどこかに示してほしかった。

 

ケンタとジュンの関係の描きかた、鬱積が爆発したときの無軌道ぶり、ジュンとカヨとの関係の描きかたは問題ないだろう。

カヨが最初に登場するシーン、あれでこの女の子の素性や心のありかもすべて表している。さりげないけど好きなシーンだ。

好き嫌いが別れるテーマであり、大衆受けする運びでもないので、オススメまではできない。 


いろいろ書いたが、個人的には好きなタイプの映画で、だからこそいろいろ気になるところが出てくるのかもしれない。

 

日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。