映画 『テキサス・チェーンソー ビギニング』

監督:ジョナサン・リーベスマン、脚本:シェルドン・ターナー、原案:シェルドン・ターナー、デヴィッド・J・スコウ、製作:マイケル・ベイ、トビー・フーパー、アンドリュー・フォーム、ブラッド・フラー、マイク・フレイス、キム・ヘンケル、撮影:ルーカス・エトリン、編集:ジム・メイ、ジョナサン・チブナル、音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー、ナレーター:ジョン・ラロケット、主演:ジョーダナ・ブリュースター、マシュー・ボーマー、2006年、92分、原題:The Texas Chainsaw Massacre::The Beginning


「ビギニング」と付いているが、『テキサス・チェーンソー』(2003年)の続編である。『テキサス・チェーンソー』の前段階である、チェーンソー男の誕生から始まるからであろう。


1939年8月、牛肉の解体工場で働いているスローンは、体に異常を覚え、その場に転倒し、早産で赤ん坊を産む。その子はゴミ箱に捨てられていただ、鳴き声に気付いた女が、赤ん坊を拾って、自宅に戻り、トーマス・ヒューイットとして、そこで育てられる。だが、その子は、生まれつき、顔が変形していた。・・・・・・


さらに、タイトルロールの中で、成長とともに、自分の手足を切断したい欲求に駆られる傾向がある、など、トーマスの異常ぶりが列挙され、1969年7月の現在から映画は始まる。


今回は、エリック(マシュー・ボーマー)とその弟ディーン(テイラー・ハンドリー)、エリックの恋人クリッシー(ジョーダナ・ブリュースター)、ディーンの恋人ベイリー(ディオラ・ベアード)の若者4人が、順に犠牲になる。

彼らを待ち受けるヒューイット一家は、トーマスを拾った母、トーマスの叔父ホイト(R・リー・アーメイ)、ホイトの父、であるが、事実上ストーリーの中心はホイトである。


随所に痛いシーンが散りばめられ、残虐ホラーという名に値する出来ばえとなっている。

あらかじめ、若者4人にそれぞれストーリー性をもたせてあり、徴兵拒否などの材料は、後半にうまく活かされている。


精肉所内の異様な雰囲気は、このシリーズの持ち味であり、薄汚く、悪臭漂うイメージと不気味さを、うまく作り出している。この閉鎖された精肉所は、後半で、トーマスとクリッシーの格闘の場となるが、その前に、エリックは、顔面の皮膚をトーマスに剥ぎ取られている。


ここで痛いことをやるぞ、と思わせた直後、そのとおりの痛いことが起きることで、観る側としては、予想を裏切られない、というつくりに、人気の秘密がある。

もし、予想を裏切るようなシーンが用意されていたら、観客は不満であろう。痛いことをしないのであれば、思わせぶりにしないほうがいいのであり、実際、前半にはそういうシーンもある。

「痒いところに手が届く」という言葉があるが、「痛いところに手が届く」ので、観る側もすっきりするのである。


「痛いことをする」という行為そのものに、やる側も観る側も快楽を感じるジャンルの映画なのであり、さまざまな薄気味悪い物体を陳列品のように映し出すことや、「痛いことをした」あとの<現状>を何度もどぎつくアップで映し出すということはない。陳列品や事後のアップは、ストーリーのヘルプとして必要だが、やり過ぎると映画(=動画)ではなくなってしまうからだ。

「もうちょっと見ていたいのに・・・」くらいで、てきぱきと次のシーンに移るくらいでちょうどいい。


この手の映画では、若者たちが、異様な一家と、どこでどう出会うか・出会ってしまうか、を、自然に描かなければならない。そこをうまく通過できれば、あとは特に問題ない。今回は、4人の乗る車が事故を起こすことで、一家とのつながりができた。

いずれ残虐なシーンは盛りだくさんになるのであり、ホラー映画の核心の第一条件は、犠牲者側と加害者側の接点を、前半で、どこにどう仕組むかによって、成功の可否が決まる。

第二の条件としては、これは映画すべてに言えることであるが、観客の期待を裏切らず、観客を退屈させないよう、適度な頻度で、ポイントとなるシーンを、ホラーなら残虐シーンを、いろいろなパターンで披露していくことだろう。

スリラーとホラーは近いと言われるが、この条件において、両者は随分と異なるのである。


ジョーダナ・ブリュースターは、きれいな女優だ。この映画完成後、製作の一人、アンドリュー・フォームと結婚している。

きれいなものを汚くしてこそのホラーである。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。