監督・脚本・原案:イングマール・ベルイマン、製作:アラン・エーケルンド、脚本:イングマール・ベルイマン 、 ヘルヴェット・グレヴェーニウス、撮影:グンナール・フィッシャー、音楽:エリク・ノルドグレン、主演:マイ・ブリット・ニルソン、1951年、96分、スウェーデン映画、スウェーデン語、白黒、原題:Sommarlek(=夏の遊び)
バレリーナのマリー(マイ・ブリット・ニルソン)は、あすの公演初日前を迎え、最後のリハーサルに追われていた。リハーサルの前に、ある人物から日記帳が届けられる。それは、かつて、恋の相手であって、事故で死亡したヘンリック(ビルイェル・マルムステーン)のものであった。
現在のマリーには、彼女に思いを寄せる新聞記者ダーヴィッド(アルフ・チェリン)がいた。粗野ではあったが、マリーなりに好意をもっていた。ただ、バレーは続けたい気持ちもあり、結婚には踏み切れない状態が続いていた。
リハーサルの途中、照明が故障し、夕方からの再開まで時間ができたので、マリーは、その日記にいざなわれるように、かつてヘンリックと夏を過ごした島に向かう。
向かった先は、かつて、バレエ学校の生徒だったマリーが、サマースクールに向かう途中、学生のヘンリックと出会い、ひと夏の恋に落ちた思い出のサマーハウスだった。・・・・・・
ラストでは、楽屋を訪れたダーヴィッドに、ヘンリックからの日記を渡し、読んでもらうことにする。そういう過去がありながら、それでもなお、結婚したいのか、とマリーはダーヴィッドに伝え、あす、返事をもらうことにする。
翌日、公演の最中に、舞台の袖に現れたダーヴィッドに対し、マリーは結婚に応ずることにする。このシーンは、ダーヴィッドとマリーの足元しか映さず、向き合って、マリーがトウシューズで背伸びしたことで、二人が接吻したことを示し、結婚する約束をしたことを示している。
ベルイマン、32歳のときの作品で、この頃から、ベルイマンのスタイルが決定していく、と言われている。
本作品は、恋愛の材をとっているが、すでにそこに、生と死の問題や、神とその不在なるテーマが、わずかであるにせよ、散りばめられている。
脚本を兼ねた作品では、こうしたテーマの周辺を巡って、当意即妙な会話があちこちに現れるのも特徴だ。
背景に、海や池といった水やそのイマージュがあり、海であっても、砂浜ではなく、岩がごつごつした海岸である。カメラワークにしても、アップを多用しつつ、遠景も取り入れ、セットのみならず、カメラが外に出ることも多い。
最も明確な特徴は、セリフやシーンに、<遊び>がない、という点だ。エンタメ性と<遊び>は異なるのであり、ベルイマンの映画に、アメリカ映画のようなエンタメ性を求めても無理というものだ。
<遊び>がない、というのは、フィルムのムダがない、という意味ではない。主張したいテーマが、上記のようなものなので、いきおいシリアスにならざるを得ないのである。テーマからはずれそうな台詞やシーンは、必然的に削ぎ落とされ、映画としてのエンタメ性は容赦なく切り去られる。
本作品でも、もしこれを恋愛映画として観たとすれば、陳腐な評価しか与えられないだろう。今は亡くなった恋人のことを思い出しているシーンだから、ヘンリックは元々まじめ過ぎる青年だから、などと言われても、当時は恋愛真っ最中のはずなのである。たしかに、二人のはしゃぐようすもあり、笑顔もあり、抱擁シーンもあり、二人でレコードのケースに漫画を描くとそれが動き出す、といったユーモラスなシーンもある。それでも、それらはみな、シリアスなトーンのなかでの出来事なのである。
恋愛シーンといえども、台詞において・フィルムにおいて、まじめに無駄なく書き下ろし・撮っていくのが、ベルイマンのスタイルなのである。
ベルイマンも人間であり、育った環境や風土の影響は、否定できない。自身は、わりと奔放な私生活を送っていたようだが、映画人として、一定の信念をもち、観客に問いかけてきた姿勢は評価していいだろう。
そういった意味で、彼の映画にこだわりたいのであれば、こういう初期作品を観ておく必要もあるだろう。
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