映画 『仮面/ペルソナ』

監督・脚本:イングマール・ベルイマン、製作:イングマール・ベルイマン、ラーシュ=オーベ・カールベルイ、撮影:スベン・ニクビスト、音楽:ラーシュ・ヨハン・ワーレ、主演:リヴ・ウルマン、ビビ・アンデショーン、1966年、82分、スウェーデン映画、スウェーデン語、原題:Persona


舞台女優のエリーザベト(リヴ・ウルマン)は、突如、言葉を発することができなくなり、失語症となってしまう。主治医の女医(マルガレータ・クルーク)は、看護師アルマ(ビビ・アンデショーン)を選び、エリーザベトに付きっきりで看病するよう依頼する。アルマは、自分がまだ25歳であり、もっとベテランの看護婦のほうが適しているのではないか、と伝えたが、そのまま看護をすることになった。

入院しているままではよくならないと判断し、主治医は、二人を、海岸近くにある自分の別荘で過ごすように言う。別荘では、何も話せないエリーザベトに対し、それまでと同様、アルマがひとりで話すしかなかった。

アルマは、落ち込んでいるエリーザベトに元気を出してもらうよう、いろいろ話すうち、徐々に、自分の身の上話をするようになっていく・・・・・・


エリーザベトは、女優として評価され、家庭でも、良き妻、良き母であったが、実際には、すべて演技であって、演ずることに疲れて言葉を発せられなくなっている。

アルマは、献身的な看護婦として、その疲れを取り除こうとするが、海岸暮らしになってから、買い物ついでにエリーザベトの手紙を預かったとき、封をしていないその手紙を見て、愕然とし、憤る。その手紙は主治医に宛てられたものだったが、自分が話せないぶん、アルマはその夫や子についてなどプライベートなことまでよく話し、それを観察しているのはおもしろい、といった趣旨の内容であった。


帰ると、アルマは、口の利けないエリーザベトに対し暴力をはたらき、ちょっとした掴み合いまでするが、その後、我に返り、そうした二面性をもっているエリーザベトを見直し、アルマは、自身も、そうした二面性を使いわけできるのではないか、と思うようになる。


別荘での二人の生活は、患者と看護婦というより、ややもすると、慕い合う女同士、或いは、同性愛にも近いような間柄となっていた。

やがて、二人は街に戻り、エリーザベトは女優の仕事を再開させ、アルマも看護師の仕事に戻ることが暗示されて終わる。

アルマは、エリーザベトの身の上に似た部分を見出したため、終盤で、アルマがエリーザベトと呼ばれ、会話上、エリーザベトに入れ替わるシーンがある。


教訓めいた話や哲学的な台詞は一切ないかわりに、<恐れ>というキーワードの周囲をぐるぐる回る女二人の、実際にはアルマという女一人の台詞が中心となる、舞台劇のような映画である。問わず語りに語られるアルマの台詞は、シーンごとに変化し、やがて身の上話につながり、ひとり笑ったり泣いたりする。エリーザベトはその表情だけを見せる。

しかし、時間の進むうち、エリーザベトはアルマの聞き役である主治医になり、アルマはまさに患者と化している。手紙の一件は、アルマが自らの立場を再認識するきっかけともなっており、だからこそ、一旦は興奮し意地悪いこともするが、すぐ冷静になり、自身も「仮面をつけた幸福なありよう」、を探るのである。


別荘が、山奥にあるのではなく海岸にあるのは、海の存在が開かれているというイマージュからくる自然な発想だろう。


カメラワークに特異なものはないが、海岸や別荘のロケ以外でのセットが興味深い。病院の中であっても、ほとんどそれらしい什器や備品、薬品棚といったものはなく、ベッドと壁、アルマの白衣しか、病院内を推定させるものはない。二人の女優それぞれのアップやツーショットのアップでのシーンが多いのは、内面心理を課題とする映画として、フレーム内に余計な事物を入れるのを避けたからだろう。


室内の光景として、ベッドでアルマが休んでいるところに、エリーザベトが近寄り、遠ざかり、また近寄って肌を触れ合うシーンは象徴的であり、絹のようなカーテンの揺らぎとともに、同性愛をも思わせる美しいシーンである。


冒頭とラストは、エリーザベトの子を象徴していると思われる少年が登場し、メガネをかけたあと、向こうのスクリーンに映るぼやけた母親の顔を、手で撫でている。

冒頭では、そのシーンにいたる前に、オープニングからタイトルが出るまで、不吉な音響とともに、さまざまなイマージュのカットが流される。映写機のフィルムが回され、フィルムが弛む映像のあとに、古いアニメ、サイレントと思われる映画、巨大な蜘蛛、男根などが、瞬時に映ったり静止したりし、釘を打たれた手のシーンのあとに、壁、木立、建物、寝ている老婆などを映し、音声からそれが病院内であることを想像させ、少年が白いシーツ一枚を羽織って寝ている姿で落ち着く。


この支離滅裂にみえる映像の断片は、これこそ、人間が、実際に、ペルソナ(仮面)によって、うまく賢く隠している人間界のリアリティなのだ、と言わんばかりであるが、これとて、観終わってから冒頭に遡って付与できる一つの意味でしかない。そうだとすれば、本作品は、映写行為のもとに描かれたペルソナの美と解釈できる。

こうしたリアリティは、エリーザベトが見るテレビの映像としても強調されている。焼身自殺を図る僧侶のニュース映像、アラン・レネの『夜と霧』(1955年)の有名なひとコマが、エリーザベトの心の表象として挿入されている。


難解と言われる作風ではあるが、本作品には、神や超自然、SF的要素、といったものは出てこない。同じ地面に立つ人間の物語である。


ビビ・アンデショーン、31歳、リヴ・ウルマン、28歳、ベルイマン、48歳のときの作品。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。