映画 『野いちご』

監督・脚本:イングマール・ベルイマン、撮影:グンナール・フィッシェル、音楽:エリク・ノルドグレン、主演:ヴィクトル・シェストレム、1957年、91分、スウェーデン映画、スウェーデン語、原題:Smultronstället(=Wild Strawberries、野いちご)


ヴィクトル・シェストレムは、スウェーデンの映画監督であり、当時78歳であったが、本作品では俳優として出演し、高い評価を受けた。彼にとって遺作となった。


医師で医学の研究者でもあるイーサク(ヴィクトル・シェストレム)は、あす、名誉医学博士号を授与されるため、いま住んでいるストックホルムからルンドに向かうことになっていた。その晩、不吉な夢を見たせいで、あくる朝、家政婦アグダ(ユラン・キンダール)に対し、飛行機ではなく、車を運転していく、と言い出す。たまたま、夫を残して泊まりに来ていた息子の嫁マリアンヌ(イングリッド・チューリン)が連れ添うことになった。・・・・・・


その道行きで、いろいろな人に出会い、また、子供の頃からの記憶が甦り、あるいは、幻想が浮かぶ。弟に奪われた婚約者サーラ(ビビ・アンデショーン)との想い出が中心で、途中で乗せたヒッチハイクの男二人・女一人の三人組のうち、女の子は名前がサーラであった。女優は、回想シーンの婚約者サーラと一人二役である。

交通事故から、一度は同乗させる口喧嘩の絶えない夫婦、今でもイーサクに恩義を感じ、ガソリン代をロハにしてくれたガソリンスタンドの夫婦、そして、高齢の厳格な母、・・・。


ようやくルンドにある息子で同じく医学者のエヴァルド(グンナール・ビョルンストランド)の家に付く。マリアンヌを迎えたエヴァルドは、険悪なムードというわけでもない。

式典を終え、へやに戻ると、アグダとの会話のあと、床につく。晩餐会に出かけるエヴァルドを止めて、マリアンヌの悩みを伝える。直後、マリアンヌとも話し、床につく。

窓の下を見ると、ヒッチハイクの三人組がお祝いの歌を歌ってくれ、別れを告げる。道中にいろいろな思いをしたが、最後にまたサーラとの記憶が甦り、穏やかな表情で眠りにつく。


イーサクの言葉や過去の思い出に託されたかたちで、人の一生や、人生上の選択、成功と失敗、夫婦の絆、老いと若さなど、多くのテーマが凝縮された映画である。

特段、変わったカメラワークなどないが、脚本がしっかりしており、台詞も当意即妙なものが多く、過不足もない。現実に交差するエピソードと、それの入るタイミングが自然で違和感がない。

特に、冒頭とラスト近くにある、イーサクとアグダの会話には注目したい。こうした<粋>な会話に、ベルイマンのエレガンスが見られる。


イーサクにとって、当面の現実的な心配の種は、息子エヴァルドとその妻マリアンヌの仲だ。マリアンヌは懐胎し、そのことをエヴァルドに話したところ、険悪なムードになったので、イーサクを訪ねてきていたのである。エヴァルドは、両親(イーサク夫婦)が仲がよくないところに自分は生まれてきたので、それと似た環境の子をつくりたくない、と言い張るのであった。

この件が、どうなったのかは、映画の終わるまでにはわからない。二人はそれぞれ、イーサクに励まされるだけである。


奇妙な夢を見た前の晩と違い、今夜はぐっすり眠れそうなラストのイーサクの表情がよい。年齢を重ねてきた者には、通じ合えるニュアンスの映画だが、若い人が見ても、説教臭いところはないので、自然に受容できる内容だろう。


野いちごは、サーラとの想い出のシーンで出てくる。

サーラが、恋い慕うイーサクのために、たくさんの野いちごを摘むのだが、結局は、自分とは結婚しなかったのである。


回想シーンの婚約者サーラとヒッチハイカーのサーラは、ビビ・アンデショーンが一人二役で演じているが、喧嘩の絶えない夫婦の夫と回想シーンの試験官もギュンナー・シェベルクが一人二役で演じている。どちらも見ていればわかるので、観客にはわかってもよい、という了解のもとでの配役であろう。


監督が脚本を兼ねると、まかり間違えば失敗に終わるが、ベルイマンは、そうした危険を重々承知して製作している。

嫌味ない自然体の映画であり、当時、好感をもって迎えられたことに納得できる作品だ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。