映画 『氷点』

監督:山本薩夫、 脚本:水木洋子、原作:三浦綾子、撮影:中川芳久、 編集:中静達治、照明:渡辺長治、美術:間野重雄、音楽:池野成、録音:須田武雄、主演:若尾文子、安田道代、1966年、107分、白黒、大映。


 クリスチャン作家・三浦綾子の小説の映画化。


戦後間もない、昭和21年(1946年)の話。

北海道・旭川市の医師で病院の経営者・辻口啓造(船越英二)が自宅に戻ると、妻・夏枝(若尾文子)はピアノを弾いていた。テーブルには、二人分のコーヒーカップがあり、どちらも飲み干されていた。気の小さい啓造は、とっさに、夏枝に詰問することができない。密会の相手は、同じ病院内で眼科を開いている村井靖夫(成田三樹夫)ということは察しがついていた。

夫婦には、兄・徹と妹・ルリ子の二人の子供がいたが、その晩、ルリ子の行方がわからなくなり、あちこちを探すうち、河原で遺体となって発見される。犯人は佐石土雄という男であったが、佐石はその後、独房で自殺してしまう。佐石には、懐胎中の妻がいた。

 夏枝は自責の念もあり、ルリ子の代わりになる女の子がほしいと、啓造に懇願する。啓造は知り合いの医師で同窓の高木雄二郎(鈴木瑞穂)に相談すると、高木は快諾する。

いよいよ、ある幼女が夫妻の娘として引き取られることになるが、啓造は高木から、この女の子は、実は、ルリ子を殺害した佐石の娘である、と告げられる。高木は、夏枝には一切知らせず育ててもらうことを、啓造と約した。

その女の子は陽子と名付けられた。・・・・・・


成人後の陽子は、安田道代(現:大楠道代)が演じ、兄・徹は、山本圭、徹の友人・北原は、津川雅彦が演じている。大楠道代、20歳、山本圭・津川雅彦ともに、26歳、船越英二、43歳、若尾文子、33歳、のときの作品。森光子(当時46歳)、成田三樹夫(当時31歳)の姿を見られるのもうれしい。


始まりから30分ほどまでは、ルリ子の死から陽子が成人になるまでの描写が続き、その後が本編とも言える。


それぞれの人物のキャラクターがきちんと描かれ、状況に応じて変化する心理模様も、観ていて楽しい。


軸になるのは、夏枝の陽子(安田道代)に対する葛藤である。夏枝は、自分と村井が密会している間にルリ子が死亡したということで、啓造が、故意に犯人の娘を押し付けたことを知ると、少しずつ、陽子に対して意地悪く当たり、或いは、若い陽子に嫉妬し、徹(山本圭)が陽子の相手にと紹介してきた北原邦雄(津川雅彦)との仲を裂くようなマネもする。

これに平行して、陽子の出自を知った徹が、妹というより愛する対象として陽子と向き合う複雑な心理や、啓造の知人・藤尾辰子(森光子)が、陽子の将来を思い、養子にくれないかと申し出てくることなどが描かれる。


陽子がいろいろ考えた末、自殺を図り、一命をとりとめると、その看護の場で、陽子の真の出自が高木の口から話され、夏枝が号泣して映画は終わる。

ただ、この結末部分は、とって付けたようでもあり、台詞だけで語らせて済ませるのも、結論を急いだ風で、不自然だ。

また、原作者がクリスチャンであるということもあり、終盤にいたって、日常の出来事や人間の存在を、無理矢理に我慢強く神々しいものだとさせるような演出も強引な気がする。


タイトルの「氷点」とは、ひたすら明るく元気に前向きに生きようとする陽子の心が、さまざまないきさつで、ついに凍った瞬間を表わしているとされる。これは、出自をめぐり、夏枝に厳しい仕打ちを受けたということだけでなく、人間が生まれながらにして持つ原罪に気付いたことでもある、とされる。

しかし、それらしい内容は、自殺をしようと、ルリ子が殺された同じ河原に向かうとき、雪の多い森の中を歩いていく陽子の独白にしか現れていない。

ストーリーを、もっと卑近な日常レベルに徹底したほうがよかったのではないか。そうすると、「文芸作品」の映画化ではなくなってしまう、という懸念が製作陣にあったのだろうか。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。