映画 『眼には眼を』

監督:アンドレ・カイヤット、 脚本:アンドレ・カイヤット、バエ・カッチャ、 脚色:アンドレ・カイヤット、ピエール・ボスト、 撮影:クリスチャン・マトラ 、音楽:ルイギ 、歌:ジュリエット・グレコ、主演:クルト・ユルゲンス、1957年、113分、フランス・イタリア合作、フランス語、カラー、原題:OEIL pour OEIL


砂漠に囲まれたシリアの地方都市の病院から話が始まる。

フランス人の医師ヴァルテル(クルト・ユルゲンス)は、その日も大きな手術を終え、ようやく帰宅し音楽を聴いていた。すると電話が鳴り、急患だという。自分はもう寝るところなので出向けない、病院には他の医師が詰めている、と伝え、病院までの道順を伝え、電話を切った。

翌朝、出勤すると、後輩の医師が言うには、昨晩来た女性の患者を手術したが死亡した、病院に来る途中、車が故障し、夫に付き添われて、歩いてやっとたどりついた患者だった、とのことだった。それは、きのう電話で依頼された患者であるらしい。出勤途中に車が乗り捨ててあったが、この夫婦の車であったのか、とヴァルテルは合点した。

病院の窓からは、昨日見た車が見え、その夫らしき人物が、亡くなった妻の衣類を車に積んでいたが、バックしたところでまたエンコしてしまい、車を放置してそのまま立ち去ってしまう。いかにもあてつけがましく、窓の前に車が放置されたことから、ヴァルテルは、この車を撤去するよう依頼した。

車の所有者は、ボルタク(フォルコ・ルリ)という男で、結果的に、ヴァルテルが妻を殺したようなものだと思い込んでいるらしい。深夜に電話が何度も鳴るが、出ると無言である。行きつけのバーで飲んでいると、ボルタクらしい男が、外から覗いている。

ある晩、初めてのキャバレーに行くと、そのボルタクが、ひとりカウンターで飲んでいる。ヴァルテルが支払いをしようとすると、財布がスられたようだったが、代わりに、ボルタクが支払って出て行った、という。ヴァルテルが、ボルタクに金を返し、彼の妻の死について説明しようと、彼を追う。・・・・・・


言うなれば、妻の一命をとりとめることができなかったのは、依頼した名医ヴァルテルが手術を行わなかったためであり、ボルタクは、それを逆恨みし、ヴァルテルに復讐をしようという話である。


ボルタクにそそのかされるように、ヴァルテルは、どんどんと街からはずれた田舎の集落に行くことになる。そこでは、負傷者がいても、旧態依然とした風習が残っていて、フランス人医師の言うことなど、誰も聞く耳をもたない。

バスが週一回一本しか来ない村に愛想を尽かし、ヴァルテルは、徒歩で、元いた街へ戻る決心をする。後から、商売のため自分も戻るとして、ボルタクもいっしょに、街へと向かう。

しかし、灼熱の太陽の下、広大な砂漠と山々が連なる道を、相当な距離、歩かなければならない。後半は、すべて、この二人の道中となる。


いわゆる逆恨みというものを、相手への直接的暴力や暴言、または、相手の地位や名誉を傷つけたり、親しい者を脅迫するなどといった手段にうったえず、現地人の有利さを活かし、狡猾な計画を立て、執拗なほどに相手を肉体的・精神的に痛めつけるという点で、あまり例を見ない作品となっている。

この意味では、本作品は、サスペンス映画と言っていいだろう。ボルタクの仕掛けた「罠」は、見ていて、よくわかる。


現実的に、観客が戦慄を覚えるシーンもあるが、むしろ、復讐者ボルタクの執拗さやしたたかさを痛感させられるシーンも多い。

今まで、ボルタクは、嘘ばかりつき、山頂から見ても、街など見えない。ラストでは、瀕死のボルタクから、これこそ街への道だと言われ、ヴァルテルはそのとおりの道を行く。

だが、そこからカメラが空撮になると、ヴァルテルの行く先には、山々と砂漠が広がっているのみである。


砂漠を舞台のサスペンス、ということになれば、なかなかこの映画の右に出る作品はないだろう。恋愛ドラマでもなく、後半には女も登場せず、ただひたすら、用意周到な逆恨みを実行する話である。

これが舞台劇であれば、背景を変えて、幕を間に入れ、ようやくここおまで来たかといった道のりを演出するわけだが、本作品では、映画として、実際にこれを行なっているわけだ。

1957年当時、こうした内容の映画をカラーで撮るというのも、作る側の熱意を感じる。手間ひまかけた作品であり、シリアス一辺倒の姿勢にも好感をもてる興味深い映画ではあるが、後半はやはり、長いと感じる。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。