映画 『そして人生はつづく』

監督・脚本:アッバス・キアロスタミ、撮影:ホマユン・パイヴァール、編集:アッバス・キアロスタミ、シャンギズ・サヤード、主演:ファルハッド・ケラドマン、プヤ・パイヴァール、1991年、95分、イラン映画、ペルシア語、原題:زندگی و دیگر هیچ‎ (=Life And Nothing Else)


1990年6月20日のイラン大地震のあと、『友だちのうちはどこ?』(1987年)に主演で出ていたババク・アハマッドプール少年とその家族の安否を確かめるべく、そのときの監督が、息子プヤとともに、車で現地に向かう、という設定。監督役は、ファルハッド・ケラドマン、息子役は、プヤ・パイヴァール。


現地に近づくに連れ、大通りは渋滞し始めているので、脇道に入り、そこから少年の故郷、コケルに向かおうとする。

途中停車しながら更に山道を行くと、小さな村があり、そこで、やはり『友だちのうちはどこ?』にわずかに出演していたパルヴァネ(背中が痛くて宿題を出来なかった少年)と出会い、同乗させる。


40000人近くが死亡した大地震の爪痕は、これら小さな村々にも大きな被害を及ぼしている。多くの家々は砕け、家族を失っているなか、ガレキの除去や必需品の運搬などに黙々と精出している。

監督が、パルヴァネ少年や、サッカーの試合を中継するための電波塔と立てている青年、湧き水で皿洗いをするパルヴァネの姉ら少女に、地震発生時のようすやその後の家族の生死について、われわれ日本人からすると、デリカシーのない質問とも思えるが、彼らは、あったことや事実を淡々と述べるだけだ。


この映画が、地震からどれくらい経って撮られたものかわからないが、それにしても、泣いたり喚いたり、そんな質問をするとは無神経だ、と不愉快な顔つきになったりするわけでもない。記録映画風な映画として、そういう演出をしたのか、実際に、そのような反応であったのを映画にしただけなのかもわからない。


前半、やや単調であるが、地震の記録を映像に捉えてあり、それを、前作につづく物語としてドキュメンタリー風な映画に仕立てている。

都市部と違い、田舎の小さな村で、神に与えられた試練と信じているかのような住民らのようすは、日本における地震の被災地の復興と違い、そこに文化の根底的な相違を見せつけられ、たいへん興味深い。


コケルに向け、さらに山道を登る監督の車を空から映し、そこで映画は終わる。

ババク・アハマッドプール少年と再会できたかどうかは、視聴者に委ねられている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。