監督・脚本・編集:アッバス・キアロスタミ、製作:アリ・レザ・ザリン、撮影:ファルハッド・サバ、音楽:アミン・アラ・ハッサン、主演:ババク・アハマッドプール、1987年、85分、イラン映画、ペルシア語、原題:خانه دوست کجاست ؟
舞台はイラン北部のコケルという村にある小学校で、その教室の入口のドアがオープニングになっている。
8歳の少年たちの集まる教室に先生が入ってきて、生徒一人一人のノートを点検する。宿題はノートに書いてくるよう指示してあったが、アハマッド(ババク・アハマッドプール)の友達で、隣に座っているモハマッド・レダ・ネマツァデ(アハマッド・アハマッドプール)は、ノート以外の紙に書いてきていた。これが二回めであったため、先生は、次に同じことがあったら退学にする、とモハマッドに言う。モハマッドは、泣き泣き先生の言うことを聞いていた。
アハマッドが家に着いてかばんを開けると、間違えて、モハマッドのノートを持ってきていたことに気付いた。これを今晩中に返さないと、モハマッドは退学になってしまう。洗濯をしている母に、そのとおりに告げ、今からモハマッドの家にノートを返しに行きたい、と言うが、母は、それを口実に遊びに行くのだろうと訝って、先に宿題をやれ、と言って聞く耳をもたない。
やむを得ず、アハマッドは、母が奥に行った一瞬に家を出て、モハマッドの家へと向かう。・・・・・・
モハマッドの住むのは、コケルからはやや遠い、隣のポシュテという村だ。アハマッドは、ジグザグ道を上り、藪の中を抜け、ようやくポシュテに着くが、詳しい場所がわからず、あちこちの人に聞いて回るが、なかなか埒が明かない。
この映画には、ある晩のアハマッドの行動のみで、ラストに翌日の授業のようすが映し出されるのみである。
アハマッドの道行きを描写しながら、老人たちの説教めいた話が撮られ、また、村の家々や主婦らの姿も映され、ノートを返しに行こうと必死になる少年の物語を、脇から装飾するかたちとなっている。
ようやく出会った年寄りは、窓や扉をつくる職人であったらしく、アハマッドを案内する道すがら、きれいな窓や扉があると、かつて自分たち兄弟が作ったものだ、と自慢する。
結果的に、ノートは返せず、アハマッドは自宅に戻り、思案に暮れ、夕飯も喉を通らないが、翌朝、教室に遅れて入り、先生が他の生徒のノートを点検している間に、隣に座るモハマッドにノートを渡し、「君の分もやってあるからね」と伝え、先生の点検は無事に終わる。
学校から帰った直後は、アハマッドの家の庭が映される。母は、井戸水を汲み、盥で洗濯をする、揺りかごに寝かされた赤ん坊には、角砂糖を入れたお湯の哺乳瓶が与えられる。家に戻ってきたアハマッドの座るへやは、これといった調度品もなく、父親が電波の悪いトランジスタラジオを聞いている、食事の乗ったお盆は床に置かれている、アハマッドが宿題をするにも机などなく、床にノートを置いている。
アハマッドの歩き回る村の家々の風景とともに、イランの、とある村の光景は、今でもこうなのだろうか、と思う一方で、内容とは違った次元で、都会的な快適さや便利さだけが価値あるものか、と考えさせられもする。
時折入るイラン風の音楽以外は、風の音や動物の鳴き声などしかない。自動車も一台も映らない。
村の住民やその日常の生活ぶりをありのままに捉えつつ、自然の音を活かし、少年の無垢な懸命さを、抉(えぐ)るようにして取り出して見せた作品である。
これら二人の生徒のみでなく、クラスの他の生徒にも、ひと言ふた言の台詞があり、彼らの無垢な瞳も、演出として効果が高い。
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