監督:堀江慶、脚本:堀江慶、おかざきさとこ、原作:平山瑞穂『忘れないと誓ったぼくがいた』(新潮文庫刊)、撮影:板倉陽子、照明:緑川雅範、編集:村上雅樹、美術:高橋俊秋、録音:石貝洋、音楽:三枝伸太郎、主演:村上虹郎、早見あかり、2015年、94分、日活。
高校3年生の葉山タカシ(村上虹郎)は、ある晩、自転車で角を曲がるとき、ひとりの女子とぶつかってしまう。タカシは謝ったものの、女子は何も言わず、立ち去ってしまう。
次の日に偶然同じ子と校内で遇い、同じ学校の生徒だとわかるのだが、いろいろ問いかけても、その子は、進んで口を開こうとしてくれなかった。・・・・・・
大変に退屈な作品であった。特に、初めの3分の1は、実に退屈。よいのは、タイトルと設定だけ。バカップルという言葉があるが、それに倣えば、バカ映画である。
高校生でも、条件さえそろえば、この程度の映画は作れる。
脚本、カメラ、主演女優が、三拍子でずっこけているので、結果的に、最低の映画になるわけだ。
高校生なのだから、もっといろいろなエピソードを盛り込むことができたはず。3年であるからには、進路、受験、友人関係、後輩関係を入れることもできたろうし、また、それぞれの家族を描くこともあってもよい。
<単線映画>は元々退屈だが、脚本上の最大の欠点は、タカシとあずさ(早見あかり)が、互いに慕い合う気持ちをもつまでが、全く描かれていない。だから、全く感情移入できないのは当然だ。
これは、本作品のテーマであるのに、ここが全く描かれてないので、それ以降は、映画としての意味がなくなる。
その後、タカシがあずさを家に連れてきたり、あずさがボランティアをしている高齢者施設なども出てくるが、単にブツ切れをつなげただけになっており、全体と各シーンとの有機的な関係が出来上がらず、平板になっている。
カメラワークも、全くおもしろみがない。何でもバリエーションに富めばいいというものではないが、それにしても、全編、単調で、飽き飽きしてくる。
一例を挙げるなら、始めのほうのバーベキューの現場で、仲間たちに問い詰められ、あずさが一人歩いて帰るところを、タカシが追ってくる、追い付いた橋の上で、あずさは、初めて自分の特殊な事情をタカシに話す。
このシーンは、すべて手持ちカメラで撮られている。よく解釈すれば、「初めて」「好きな相手に」、自身の特殊な事情、それも、あまりよくない話をしようとするくだりであり、その不安な心情を表わそうと、手持ちにした、とも言える。
しかし、そうではなかったのは、観ていてわかる。カメラに、ほとんど技量がないのである。二人を交互に映したり、ツーショットで映したりするが、橋の上でもあり、固定カメラで撮るべきところだ。あずさが肝心なセリフを言うときだけ、バストショットかアップにすればよい。これは、終盤にある展望台でのシーンにも言える。
脚本が下手であるから、どうしてもあずさのシーンに「間」が多過ぎる。それなら、その「間」を埋めるように動けばいいのだが、脚本とカメラの間に濃密なコミュニケーションがないせいか、脚本を監督が兼ねていて撮影サイドが何も言えないせいか、ただカメラを回し続けているだけになっている。
主演のうち、早見あかりはミスキャストである。演技力が全くないところに、不十分な脚本ときているから、より一層、下手さが目立つ。製作時、20歳であるが、それにしても、高校生に見えない。女子は、制服でなく普段着になると、年が増さって見える傾向があるが、顔立ち、身体のライン、発声など、妙に老けて見えて、興ざめである。
配役の年齢とそれを演じる俳優の年齢が違ったところで、そのこと自体は問題ないが、ある意味、この微妙なストーリーにおいては、ミスキャストであった。
自分の特殊な事情を隠しているときや、それを打ち明けてしまったあと、タカシといるときなどのハイな部分とのギャップが、余りに大きすぎるのも、感情移入できない点だ。名前とともに消え去ってしまうという秘密を背負った女子ではなく、ただのバカな女にしか見えない。こういうハイな部分と、陰気な部分とが同居している女ということなら、あずさは、悲劇のヒロインというよりむしろ、躁鬱病患者にしか見えない。
結局、この映画で最も得をしたのは村上虹郎であり、これ以降の作品へのよきエチュードとなった。
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