監督:ラリー・ピアース 、脚本:ニコラス・E・ベア、 撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド、編集:アーマンド・レボウィッツ、音楽:テリー・ナイト、主演:トニー・ムサンテ、マーティン・シーン、1967年、103分、モノクロ、原題:The Incident(=出来事)
深夜午前2時ころ、地下鉄(高架鉄道)にたまたま乗り合わせた人々が、どうしようもない二人組の不良に絡まれる話で、結論として、この二人は、左腕を骨折している若い兵士フェリックス(ボー・ブリッジス)に叩きのめされ、ようやく下車できる。
隣の車輛へのドアは壊れていて動かず、不良のひとりがドアを壊したため、途中駅でも誰も降りられない。警官が見回りにくることもなく。不良が妨害するため、非常停止装置を作動することもできない。
いわば、作られた公共の密室に軟禁された人々と、不良二人のやりとりが進行していく。
映画は、ちょうど半分のところから、地下鉄の一車両内が舞台となるが、それまでは、そこに乗り合わせる人々が、順に紹介される。
幼い子を抱いた父親と妻、自分には冷たい態度を示す息子を批判する高齢の父親とその妻、家族に送られて帰省から現場に戻る途中の若い兵士とその友人、黒人に偏見をもつからと白人に敵意を剥き出しにする黒人とその恋人、いちゃつくカップル、不器用なふるまいしかできないゲイの男性、家庭に問題をもつ一人の中年男、仲たがいの絶えない中年の教員とその妻、である。また、その車両には、初めから、座席に寝転んでいる酔っ払いもいた。
不良のジョー(トニー・ムサンテ) とアーティ(マーティン・シーン)の不良ぶりは、冒頭から描かれ、客の紹介の前に置かれる。
酒を飲み、町中を大声で踊り狂いながら、一人の男を待ち伏せし、カネを奪うと殺してしまう。上記乗客がそろったところに、たまたま、二人は乗り込み、後半へとつづく。
この不良どもは、子供のような大騒ぎをしたあと、一人ずつに絡んでいく。初めは、熟睡して寝っ転がっている酔っ払いの足元に、マッチで火をつけようとする。そこから、延々と、乗客いびりが始まる。
しかし、直接的暴力は、この始まりと終わりだけであり、あとは、言葉による暴力や爬虫類のような態度だけである。
ミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』を思い出させる展開だ。
乗客らに共通しているのは、この不良どもに、なかなか立ち向かう人間がいないことだ。暴力を恐れるということもあろうが、せいぜい大きな声で「やめろ」などと言うばかりで、あまり積極的な動きに出ない。
また、夫婦や恋人同士でいるとき(地下鉄に乗る前)には、大口を叩いていた夫や男のほうは、妻や恋人に不良が絡まれても何もできず、怖じ気づいているだけで、その情けなさに妻や恋人が嫌気をさすような表情も見てとれる。
さらに、他の乗客が絡まれていても、ほとんどの乗客は、視線をそらし、身を寄せ合うだけなのだ。
はじめ、同じ年くらいではあるが、にこにこと大人の対応をしていたフェリックスが、最後には、片手を骨折しているとはいえ、もろ手でジョーやアーティーを殴り、この<出来事>は終結する。しかし、他の乗客は、フェリックスの勇気を讃えることもなく、感謝の言葉を述べるでもなく、黙って車両をあとにする。
この映画は、いったい、何を描こうとしたのか。
世間の冷たさ、暴言・暴力に対して、会話や説得だけでは何も解決しない、...それだけならもっと陳腐な作品になっていただろう。といって、悪と善との戦い、というわけでもあるまい。二人組の悪に対するだけで、夫婦やカップル、人間の理想などにも相似形としての悪や偽善は存在している。
不良二人と乗客それぞれを対決させることで、世の中の理不尽、あるいは、世間の理屈では通じない部分を故意に作り出すこと、そうした状況そのものを、観客にいやというほど克明に見せつけるのが目的だったのでないだろうか。
暴漢の前で、誰もが無力であること、おそらく、人間同士が、妻や恋人の前では偉そうに主義主張を唱えても、いざ現実的に「それは本物か」と問われると、途端に崩壊し、あるいは萎えてしまう程度のものである、・・・そんなことを言いたかったのではなかろうか。
本作品は、マーティン・シーンのデビュー作である。
他の出演者は、セルマ・リッター 、ゲイリー・メリルなど、それぞれにキャリアのある俳優ばかりで、演技合戦は観ていて楽しい。
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