監督:中西健二、脚本:長谷川康夫、原作:赤城大空『二度めの夏、二度と会えない君』、撮影:喜久村徳章、編集:下田悠、音楽:未知瑠、主演:村上虹郎、吉田円佳、2017年、106分、配給:キノフィルムズ
高校3年の篠原智(しのはら・さとし、村上虹郎)と森山燐(もりやま・りん、吉田円佳)は、文化祭でライブを終え、帰宅するところから始まる。歩く先にある大学をめざす。大学の前に着くと燐は、智といっしょにここに通えたらいいな、といったことをつぶやく。
燐は、ある不治の病に罹っており、延命するより、この高校にきてライブをして燃え尽きることを望み、それが実現したのであった。最期の床に燐を見舞いに来た智は、燐との会話で、ある言葉を発し、そのことで燐は智に、出て行ってくれ、と言う。
やりきれない気持ちで智は雪舞う道を歩いてくるが、崖から転げ落ちてしまった直後、二か月前の状態に戻っていることに気付く、それならば、もう一度、燐と同じ時を過ごし、最後に口にしてしまった言葉を言わないようにすればいいのだ、と決意する。
こうして、時間が戻り、二人は、二度目の夏を迎えることになる。・・・・・・
文庫本のライトノベルを映画化した作品。ライトノベルはライトノベルのままのほうがいいだろう、と思わせる作品で、可もなく不可もない。
時間が過去に戻ったり、燐の不治の病が何なのかを明らかにしていない点は、特に問題とならないが、若い俳優が中心で、ライブシーンなども挟みながら、何ともメリハリがなく、エンタメ性に欠ける作品だ。
映画はそれぞれの分野が協力してできる芸術ではあるが、監督は、脚本・演出・カメラワーク・編集などすべての分野に責任を負う。とすれば、この映画を陳腐な出来にしてしまったのは、ひとえに監督の責任であり力量不足である。この監督は、映画監督であるのに、ほとんど映画を観てきていないと思われる。
俳優の実年齢が、役どころろ多少ずれることは問題とならない。問題は、俳優よりも、脚本と撮影にある。
映画は映像である、というのは基本だ。智のモノローグとして、余計なセリフが多すぎる。映像と編集でいくらでも表現・描写できそうなシーンも、シーンは動かさず、智のセリフだけに頼らせている。伏線を張って、あとで効果的に回収するというパターンはよくあるが、全体のつながりにおいて、その伏線の回収が平凡で、伏線にした意味がない。
ストーリー全体としても、単にシーンを並列つなぎにしただけで、ストーリーをほぼ予測できて観ている側からすると退屈になる。
撮影に、大きな特徴がない。むやみに凝ったカメラワークをするよりいいのだが、被写体あっての撮影なのであって、フレームに力のないところが多い。
アップは、少なめに挿入してこそ効果的であるのに、交互にアップだけ映すシーンが多すぎる。これは、冒頭の病床の燐と智とのシーンをはじめ、ほとんどのシーンに出てくる。
アップというのは、基本的には、カメラとしては下品なのである。アップは、顔や目や肌が拡大されるため、撮影方法としてはどぎついのだ。アップが許されるのは、一瞬にして感情が動いた直後や、深い心理の機微の終点などを映すときにこそ、効果があるのである。
ラストで、智が燐から受け取った手紙を見るシーンがある。
冒頭に一枚目だけ見せておきながら、ラストになって、その最後の行までを映す(観客に知らせる)。智は、二度目の夏を経過したあとでも、一度目とは違うが、やはり、後悔の念に駆られる。二度目の病床では、燐のために、何とか苦し紛れの嘘をつき、一度目の夏を修復できたかのような智であったが、やはり二度目の、結果としては同じことになったことを悔やむのだ。
そして、雪の中、バンドのメンバーを雪の中に呼び出し、燐の言っていたとおり、あたかも燐の言葉を遺言として、みんなに、「バンドをつづけよう」と言う。
このラストから、さらに10分くらい、盛り上げるストーリーが続いてもよかった。思い出のシーンではなく、いま現在の高校生らしい学園生活と受験勉強、そこにバンドの練習風景などを入れて、そこに燐は生きている、というような話があってもよかった。原作の映画化の場合、脚本は原作者と相談して上で、多少の換骨奪胎をおこなってもかまわないはずだ。
映画のことをあまり知らない若いカップルが、デートの前や後に見る作品としては、手ごろな作品だろう。
村上虹郎はハタチになっているが、<監督の要求>には、しっかりした演技で応えている。他のメンバーの女子はみな、本来、俳優ではないので、演技が充分とは言えないが、演技<うぶ>を狙ったとすれば、そいう起用もあるだろう。
以上すべての結果、俳優・村上虹郎は、大いに得をした映画になった。
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