監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク、製作:ヴェルナー・ヘルツォーク、ルッキ・シュティペティック、撮影:トーマス・マウホ、編集:ベアテ・マインカ=ジェリングハウス、音楽:ポポル・ヴー、主演:クラウス・キンスキー、1982年、157分、西ドイツ映画、ドイツ語、原題:Fitzcarraldo
『アギーレ/神の怒り』(1972年)で、ヘルツォークが初めてクラウス・キンスキーを起用して以来、二度目の顔合わせとなる作品。カンヌ国際映画祭で、監督賞を受賞している。
撮影・編集・音楽は、『アギーレ/神の怒り』と同一のスタッフ。
19世紀末、ブラジルの北部マナウスで、世界的オペラ歌手エンリコ・カルーソーが出演するオペラが開かれていた。フィツカラルド(クラウス・キンスキー)は、愛人のモリー(クラウディア・カルディナーレ)と共に舟を漕いで駆け付け、何とか会場入りし、そのすばらしい歌声に聞き惚れる。
アンデス地方に鉄道を作ろうとしていたフィツカラルドは破産していたが、今度は、ペルーの北東部・イキトスに、オペラハウスを作り、そこにカルーソーを呼び寄せる夢を抱く。そのためには莫大な資金が必要となるため、南米奥地の未開拓地に、ゴム園を作り資金を得ることにする。彼の考えは周囲に白眼視され、奇人扱いもされるが、彼は本気であり、モリーに金を融通してもらって大きな船を買い、船には「モリー」という名を付ける。
船長ら数人を雇って、いよいよアマゾン川に繰り出す。・・・・・・
学生時代に、今はない「シネ・ヴィヴァン六本木」で観て以来、久しぶりの鑑賞となった。
アマゾンにオペラハウス、という発想が驚きであったし、やむを得ぬ理由があるとはいえ、巨大な船を山越えさせる、という映画も初めてであった。まさに、ヘルツォークの執念で出来上がった作品と言って過言でない。
アマゾン川を船で上流に昇っていくのだが、両脇の真っ暗な森から、姿を見せない先住民インディオの音楽が聞こえてくるあたりから、シリアスなシーンとなる。
大木を川に落とし、船が戻ることをできなくしたうえ、彼らはぞくぞくと小舟から、「モリー」に乗り移ってくる。言葉も通じず、何を考えているのかわからない連中と、数日間を過ごすが、これら大人数のインディオたちは、「モリー」の山越えには、ちょうどよい具合に、必要不可欠な人員であった。
インディオの言葉がわかる料理人ウェレケケ(ウェレケケ・エンリケ・ボホルケス)に通訳してもらうと、インディオの酋長は、意外にも、協力する、と答えた。
船の山越え自体は圧巻だが、その前後のシーンは感動的だ。
大木の伐採、滑車の運搬、ロープの牽引など、多数のインディオたちが人海戦術よろしく大活躍する。危険な作業のなか、若いインディオが船の下敷きで死ぬこともあった。彼らはほとんど無言であり、ときに互いに掛け声をかけて、夜は休みながら、一週間かけて、船は反対側の川に浮かぶ。
このあたり、ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック 目撃者』のあるシーンを思い出させる。ハリソン・フォード演じるジョン・ブックが、アーミッシュの村で村人に溶け込み、小屋を建てるシーンだ。
しかし、せっかく成功しながら、インディオは、自分たちの考えに基づいたのか、繋留していたロープを切り、船を急流の待つ川に放してしまう。
結果的に、フィツカラルドの夢は、半ばで閉ざされたが、楽士と歌手を招き、その傷んだ船「モリー」の上でオペラを聞き、満悦するのであった。
2時間半の映画であるが、全体にフィツカラルドの信念が貫かれており、見飽きることがない。川昇りのシーンも、適宜、夕刻の景色などが入り、ほっとできる。インディオとの遭遇から山越えの終わるあたりまでは、これはまた特別な緊迫感とエンタメ性をもって、映像を楽しませてくれる。
カメラワークに特段変わったところがあるわけではない。むしろ、山越えの大がかりなシーンなど、すべて実際にアマゾン周辺で撮っていること、いろいろな工作物を現実に作って撮影しているところなど、驚嘆に値する。
また、インディオたちをエキストラより俳優に近い状態で、よくもこれほどの撮影ができた、と思う。彼らが、総出で、木を伐り、土砂を運ぶシーンなど、こういうシーンがあるからこそ、この映画が生きてくるのだ。
フィツカラルドの「ド偉い」決意と行動力が伝わってくる映画だ。
それにしても、アマゾンとオペラハウス、船の山越えには、意表を突かれたものだった。
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