映画 『ワカラナイ』

監督・脚本・プロデューサー:小林政広、撮影:伊藤潔、編集:金子尚樹、照明:藤井勇、主演:小林優斗、柄本時生、2009年、104分、ティ・ジョイ。


16歳の亮は、コンビニでアルバイトして、ようやく食いぶちを稼ぐその日クラシーの生活を送っていた。再婚した父親は入院中の母親と亮を見捨て、生活費も入れないでいた。

あるとき亮は、サンドイッチ代を浮かせるため、コンビニで釣り銭をごまかしたことがばれ、クビになる。

母親も死に、病院には入院費の請求や葬儀屋が来て、金の催促をする。とてもそんな金など払えない亮は母親の遺体を勝手に引き取り、いつも一人で休んでいたボートに乗せ、海に流してしまう。・・・・・・


冒頭から真っ黒な画面のまま、男の声で主題歌が流れ、なんだこりゃと思い、ハズレかと思ったが、それほどではなかった。

一人の少年が、金もなく身寄りもなく、いきなり大人や制度に対峙する姿は、見ていて痛々しいし、多少の社会批判めいたメッセージをみることもできるが、映画というカタチになっていて評価できる。

ロードムービーであれば、行く先々でのいろいろな出会いやエピソードが描かれるが、ロードムービーでなく、少年がどん底の逆境のなかで、それでもどうやって日々をやりくりしていくかにのみ焦点を当てているため、ストーリー性がほとんどないものの、わりあい注視してしまう。

そうさせるのは、常に亮にのみ的を絞ったカメラと、妥協のない演出である。


母親が死んでしばらくしてから、亮は地図を頼りに、父親の住まいを見つけ出す。その家の前に日がな居座っているので、今の妻らしき女性は、子供の送り迎えごとに、不審に思う。妻は夫に電話で、変な子がずっと表にいるから早く帰ってほしいと電話する。このシーンでは、電話の声だけ聞かせ、カメラは家の中に入らないどころか、妻が亮の前を行き来したときも、ただ引いたままとらえるだけだ。


少年が何度となく泣くシーンでは、頭は映るが、泣き顔は撮らない。泣く姿だけで充分ということなのだろう。

夕立の中を歩くときも、本当の夕立を狙って撮っていて、リアリティにこだわりを見せている。

取り調べの刑事の顔は映さず、正面からの亮の何通りかの表情に固執している。

境遇からして当然なのだが、携帯電話も登場しない。


ほとんどのシーンが手持ちカメラでのフルショットやバストショットであるが、さほど揺れもなく動き回りもしないので、観ていて疲れない。


全くどうしていいかワカラナイという状況の連続ではあるが、亮の両親に対する愛情は充分伝わる。

母親の遺体をボートに担いで運び、横たえると、その亡骸(なきがら)のわきに、亮が全裸で添い寝するという演出には驚いた。


少年院送りになる寸前で、父親の家の前のシーンとなり、表に出てきた父親と、そこに現れた亮が、離れた場所から父親に駆け寄り、二人が抱きしめ合うシーンで、ようやく亮は救われたことになる。

亮は常に、一張羅の赤いΤシャツとジーパンで、腕を振らないまま小走りに走っている。いつも焦りのなかでしか生きられないのだ。セリフも最小限で、音楽もほとんど入らず、亮の笑うシーンもない。


決して派手ではないが、主演が少年だけに厳格に演出を効かせ、映像という手段をうまく使いこなした佳作である。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。