映画 『悪人』

監督:李相日、脚本:吉田修一、李相日、原作:吉田修『悪人』、撮影:笠松則通、編集:今井剛、音楽:久石譲、主演:妻夫木聡、深津絵里、2010年、139分、東宝。


土木作業員の祐一(妻夫木聡)は、出会い系サイトで知りあった佳乃(よしの、満島ひかり)と何回か会っていたが、あるデートの晩に祐一が自分の車スカイラインで待っていると、佳乃は、偶然現れた圭吾(岡田将生)の車に乗って行ってしまう。佳乃は同じサイトで圭吾とも知り合いであったのだ。腹が立った祐一は、二人の乗った車を追う。

その後同じサイトを通じ、祐一は光代(深津絵里)と出会う。・・・・・


全体的に丁寧に誠実に撮られた映画で、脚本、映像、音楽ともに、かなり完成度の高い映画だ。身勝手な解釈ながら、日本映画の本道を行く内容の映画としては久しぶりの快挙だ。

この映画には、映画制作上の主演はいても、親類、恋人、出会いなど位相に違いがあるだけで、6人の主要人物は、それぞれの生きる世界での主役である。


冒頭からストーリーの運びがよくできていて、場所的に動かなくなる灯台が舞台になるとたるむかと思ったが、場面転換が適切で、映像にくふうがあり、テーマ性からしてゆっくりとした展開であるが、ラストまでひとつのトーンをもって一気に観せてくれる。


祐一の心理、後には光代と隠れる灯台、祐一の家族、特に祖母(樹木希林)、殺された佳乃の両親(柄本明、宮崎美子)、この三点間の揺れがよい。

祖母の生きざまは祐一の件に直接のつながりをもたないが、祐一の物語に厚みをもたせる効果がある。

舞台の中心が灯台に移っても、それまでのセリフや大海原の景色を入れるなどして、たるみを感じさせないようにしている。


深津絵里は繊細な演技を見せる。これはこの役柄にはまるなら演じきれる役だろう。深津絵里は得をした。

これに対し、妻夫木聡には批判が、これも同じ理由で、誰がこの役を引き受けても、演技力が同じとすれば、これ以上の心理表現は難しいかもしれない。役柄にしては容姿が柔らかすぎるのかもしれないが、そうなるとキャスティングの問題で妻夫木のせいではない。


警察に向かう祐一を、光代がクラクションを鳴らすことで呼び寄せる。このアイデアはよかった。光代がどしゃ降りのなか出ていって祐一にすがりついたら、祐一はそのまま警察に行くことになるからだ。

イカの目のクローズアップに過去の出来事が現れるシーン、これは単純に、映像上の遊びだろうと解釈する。目を見開いて…とかいった深い意味はないと思う。


映画は‘意外なことに、佳乃の父親(柄本明)が帰宅するところで終わる。この意外性がラストシーンとして効いている。父親が、娘殺害のきっかけを作った圭吾のあとを追い、ひとくさり言うべきことを言って去ったあと、圭吾の友人が父親の落としていったレンチを拾い上げ、それをガラステーブルに叩きつける。この行為と、音ですぐ切る演出・編集はよい。この一連のシーンで映画は終わる。


タイトルにある悪人とは誰か。

『フォーリング・ダウン』(1993年)では、確かに、主役のD=フェンス(マイケル・ダグラス)だけが悪人ではなく、それぞれが悪人であった。

この映画でも、法律上の悪人は祐一しかいないのだが…。テーマも回答もシンプルにして明快で、後味に不快感は残らない。


あえて指摘するなら、祐一の性格形成にいたるシーン、またはそれを浮き彫りにするシーンがほしかった。

母親(余貴美子)は後半に少し登場するが、小遣いをせびっていたのなら、セリフでなくシーンで示したほうがよかった。祖父の世話をする、両親は家にいない、祖母が育ての親である、などは描写されているが、生きのいい若い男が、そうした現実からハメをはずすときやところがあったり、その反対側の言動があるのは当然予想されるので、その部分がカットされてしまっているため、光代に本気と言われ、殺しで追い詰められた現実があるとはいえ、光代同様祐一も恋に落ちるという流れが、そこだけひっかかってしまうのだ。


そういう「人間、祐一」を象徴するのが茶髪でありぶっきらぼうな動きかたでありスカイラインの走りかたなのだろうが、それだけではこの映画の核心にせまる素材としては足りない気がする。

祐一はこの映画の中心人物であり、このことをどうとるかにより、この映画への評価は乱高下するだろう。


この映画のよいところもひとつ挙げるならラストだろう。

祐一も光代も映すことなく、佳乃の父親が自宅の理髪店に帰ってきて妻とともに二階に消えていく。カメラは店の中に入らず外から回したままだ。カメラの動きを抑制し、被害者家族を映すのをラストにしたことで、この映画づくりのスタンスが明確になっている。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。