映画 『ブラック・スワン』

監督:ダーレン・アロノフスキー、脚本:マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・J・マクローリン、原案:アンドレス・ハインツ、撮影:マシュー・リバティーク、編集:アンドリュー・ワイスブラム、音楽:クリント・マンセル、主演:ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、2010年、108分、原題:Black Swan


ニナ(ナタリー・ポートマン)は、所属するバレー団のなかでは、かなり素質のあるバレリーナで、日夜、訓練を続けていた。

舞台監督のトマ(ヴァンサン・カッセル)は、次期シーズンの目玉の演目として、白鳥が黒鳥にも変化するよう自ら脚色した『白鳥の湖』を、上演することにし、そのプリマドンナとして、ニナを選ぶ。

ニナは喜びも束の間、猛練習を積むが、白鳥はうまく踊れるものの、黒鳥の演技には奔放で意地悪さの輝きが表現されねばならず、なかなか思うように演技できないでいた。そのことをトマに叱責されるが、自身でもまた、事実そうであることを自覚するため、徐々に精神的に追い込まれてしまう。・・・・・・


作品としては、よくも悪くもない。

ニナの前のプリマドンナ、ベス(ウィナノ・ライダー)の屈辱や、プリマに選ばれなかった仲間の嫉妬、同じくバレリーナであった母親(バーバラ・ハーシー)の偏愛、プリマとなったニナを堕落させようともくろむ仲間の小悪魔的存在リリー(ミラ・クニス)のイタズラ三昧など、こういう状況に置かれた一人の女性バレリーナの周辺に、至極起こりそうなエピソードを挟みながらストーリーは展開する。音楽の映画ゆえに、そのなかに、音楽やバレーの風景が挿入され、映画のシークエンスとしては飽きは来ない。


しかし、これらエピソードは最小限に抑えて描かれているように思う。というのは、日常のニナとその周辺が拡大され過ぎると、ニナ自身の心理のグラデーションが鮮明に現われてこないと判断したからだろう。監督は、単にプレッシャーのなかで、それに耐えながら打ち勝っていこうとするバレリーナを描きたかったのではないはずだからだ。

自分の不得手とする黒鳥を体現しようとしながら、なかなか表現できず、次第に、必ずしも白のままではいられなくなり、邪悪ではないものの、堕天使のような黒の部分に入り込み、その上、黒の部分を自身のほうに引き寄せるニナの変身を描きたかっただろうからである。


同監督の『π』(1998年)のように、多少とも幻覚に襲われるようなニナを描きたかったがために、それだけに妥協のない、シリアス一点張りの演出は、好き嫌いが分かれるところだろうし、先ほどのエピソード風なもののほうへはストーリーが展開しないので、つまらないと感じる向きも出てくるだろう。

そうした緻密さの如実な現われのひとつが、足先や指先での‘出来事’である。

冒頭近くに、トウシューズを履くところが出てくるが、ふつうなのはそこだけで、あとは、爪が割れて血が滲んでいたり、手指の逆剥けを思い切ってひん剥いたりと、シーンは少ないが、ホラーかと見まごうばかりの痛いシーンや気味悪いシーンを入れたのも、精緻な表現の延長であろう。


また、カメラは、バレーの練習風景などはふつうであるが、それ以外のシーンでは、バストショットが少なくアップショットとクローズアップが多いので、映像としてアクが強く感じる。顔を見ろ、顔を見ろと言わんばかりの連続で、観ている側の受ける心理として穏やかでいられない。ただそれは、狙いのうちかもし知れない。

それだけに、俳優は顔の表情の演技が完璧にできることを要求されるが、ポートマンその他、みんなうまかった。特にポートマンがうまいと思ったのは、プリマが発表されて、こっそりトイレに入り、携帯で母親に吉報を知らせるシーンだ。ミラ・クニスという女優も魅力的である。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。