映画 『蛇にピアス 』

監督:蜷川幸雄、脚本:宮脇卓也、蜷川幸雄、原作:金原ひとみ、撮影:藤石修、編集:川島章正、音楽:茂野雅道、主演:吉高由里子、高良健吾、ARATA、2008年、125分、 ギャガ。


駄作。

おもしろみのない映画。

うったえる力のない映画。

主役が三人もいるのにドラマがない映画。

映像にも見るものがない映画。

映像化しようとした意欲だけは買おう。


心情を映像にあらわすのは難しいが、観念を映像化するのは、さらに至難の技だ。それならペーパーのままにしておいたほうがよい。

痛みに平気であり、痛みにしか生を感じない…それならその寄ってきたる過去の道筋を描いて突き出してもらわないと、なぜこの女の子がそういう思考に固まってしまうのかわからない。


ピアスを入れるシーン、入れ墨を彫るシーンの描写が多いのは、痛みへの誘(いざな)いであるが、それがこの女の子にそのつどどう受けとめられているのかというのはモノローグに換えられてしまう。

三人の間のシュールな関係または宇宙での物語といえども、やはり、警察、結婚、葬式など現実社会の枠組みに関与せざるをえず、三人の宇宙と現実社会のリンクの部分も不鮮明。むしろそうした世間のできごとは伝聞などでカッコにくくって、心理描写を演出したほうがよかったのではないか。


テオ・アンゲロプロスという監督の映画は、まさに観念を映像化しようとするから、松明(たいまつ)やら霧やらまで持ち出して、映像については大変凝った演出をしていた。

といって俳優にそれほどの演技の演出もなく、映像主体の映画が多いから、はっきり言って退屈なのだが、観念の映像化に命がけで取り組んだ跡がうかがわれる。


規模もテーマも異なるから一概に言えないが、神がどうの生がどうのというのであれば、もっと気合いを入れて作るべきだ。神を描かずして軽々しく神を閉じ込めた、なんて言ってほしくない。同じことがこの映画にも言える。

この映画はそれでいいのだ、あるのは痛みとセックスと三人の微細な関係だけだから、それさえ描ければいいのではないか、その分断された愛の原料こそ、若い三人の不器用な生きざまを抽出して得られた粉末なのだから…という人もいるだろう。

しかし、粉末は料理の元だ。料理を出してくれよ。


無理やりに我々を観念の世界に引きずりこもうとするあの意図丸見えのファーストシーン、あそこだけで退屈な映画だろうなと予感できたが、まさかラストシーンまで本当に退屈なままだとは思わなかった。


同じ蜷川の『青の炎』(2003年)はよかっただけに残念だ。原作が退屈なら蜷川だけのせいではないのだろう。

山手線や小田急線のカットが入るが、よかったのはあのメタファくらいだ。主役たちの滑舌も悪く、冗長なシーンも多い。若い三人だけで仕上げる内容にしては重すぎるのかもしれない。


アマとはほとんど会話らしい会話してなかった、という女の子のセリフがある。このセリフこそ、この映画の感想を一言で象徴的に言い表している。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。