監督・製作・脚本:サミュエル・フラー、撮影:スタンリー・コルテス、編集:ジェローム・トムス、音楽:ポール・ダンラップ、主演:コンスタンス・タワーズ、マイケル・ダンテ、1964年、92分、原題:The Naked Kiss
同監督の『拾った女』(1953年)がことのほかよかったので、これも観てみた。
ケリー(コンスタンス・タワーズ)は、娼婦として売春組織のなかで働いていたが、ある日、ピンハネを働いたヤツをぶっ飛ばし、3年後に、全く違う街にセールスレディとしてやってきて、女の人生を一からやり直すことにした。
美人で目をつけられ、その街でも、一人の男、刑事グリフと寝るが、住むアパートを見つけ、やがて堅気の仕事にありつく。それは、身体障害者の児童ばかりが集められた養育施設であった。
そこではケリーは、責任者の女性や同僚の女性らの信頼も厚く、かいがいしく子供たちの面倒をみるのであった。
そのうち、街の篤志家でまだ若いグラントと出会い、付き合ううち、グラントからプロポーズされ、迷った末に、結婚を受け入れることにする。……
内容は異なるものの、『拾った女』に通ずる臭いがプンプンする。
冒頭、意表をつくのは、いきなり女(ケリー)が、靴やバッグで男を殴りつけるファーストシーンだ。アップテンポのジャズにのせて手持ちと床の入る固定で撮られる。殴りつけているさなかに、女のカツラがとれると、女は丸坊主だ。
男をぶちのめすと、鏡に自分の顔を映し、カツラをかぶり化粧を直す。ムーディーな音楽とともに、その部分がオープニングクレジットと重なる。そしてまたジャズになり、女はへやを去る。
この冒頭の一発は強烈で、一気に話に引き込まれる。
新しい街に来たときもジャズが流れ、グリフはケリーを「拾う」。
「拾った女」の主役はスリだったが、こちらは娼婦であり、他に登場するのも障害者の児童と、実は幼児趣味の変態グラントである。やはり、社会の底辺にいる人間たちだ。
しかし『拾った女』とストーリー上違うのは、ケリーのあこがれとしての文化的生活がセリフなどに現れている点だ。ゲーテの名が出てきたり、BGMにベートーベンの月光ソナタなどが流れるところだ。もうひとつは子どもたちの登場であり、ケリーという女の母性を表現しているところだ。
ケリーは結果的にグラントを発作的に殺してしまい、容疑者としてたまたまグリフの取り調べを受けるが、容疑は晴れて、スーツケースを持って、また次の街へと向かうのである。
裸のキスとは、文字通りで、セリフにも出てくるが、ニュアンスとして、恋愛相手とのキスではなく、商売としての汚いニュアンスのあるキスのことだ。
まるで西部劇に登場するストレンジャーのようだとするレビューもあったのは頷ける。
『拾った女』の日記でも書いたのだが、セリフに無駄がなく、いろいろな演出がほどこされているので、全編のあらすじを書いたところで全く問題ないくらいだ。
過不足ない気の利いたセリフ、フレームの充実度、時折挿入される空想シーンなど、個性的な映画づくりで、フラーファンが多いというのも納得できる。
どうもこの監督、選んだり選ばれたり、というより、拾ったり拾われたりというコンテクストが好みのようだ。
『拾った女』と違うもう一つの点は、カメラがほとんどパンしないのである。それに、二人の会話シーンをツーショットはわずかにし、あとはそれぞれのワンショットにしてつなげているところだ。いわば、小津安二郎のカメラである。
0コメント