映画 『リリイ・シュシュのすべて』

監督・脚本・編集:岩井俊二、撮影:篠田昇、音楽:小林武史、主演:市原隼人、忍成修吾、蒼井優、2001年、146分、カラー。


栃木県足利市あたり、稲の葉が一面に広がる初夏の田園風景のなかに、制服を着た中学生がひとり、イヤホンをつけて音楽に聞き入っている。

彼の名は雄一(市原隼人)、複雑な家族構成をもち、学校の仲間、特に修介(忍成修吾)らからいじめられたり、女子にからかわれたりするものの、やがて修介ともウマが合うようになり、人の金を盗んで、沖縄旅行にまで出かける。・・・・・・


平均点は越えたが、奇を衒った、大いなる自己陶酔映画。

盛大な祭りや宴会のあと、誰もいなくなった、無人の空間に、紙くずや酒瓶がころがっているような後味と印象をもつ映画。


観る者を選ぶわけではない。ある意味、開かれた映画であり、思春期のもどかしい心情、仲間とはいえ他人とうまくやっていく処方を探るときの心の試行錯誤、そうした心の揺れを鎮(しず)めてくれるリリイ・シュシュという歌手の音楽空間を、斬新なカメラワークとハイテクを駆使して作られた青春映画であろう。

中学生が彼らだけで沖縄旅行?、それも盗んだ金で?、…そんな非現実的な話はありえない、という批判は当たらない。映画はそもそもフィクションなのであり、そこに思い切って非現実を組み込むのはなんら差し支えない。


長い映画になるには、逆にいえば、編集でカットする率が少ない映画には、そうしなければならなかった理由があるのだ。『戦争と人間』(1970年~1973年、第一部:197分、第二部:179分、第三部:187分)、『ゴッドファーザー』(1972年、177分)、『ファニーとアレクサンデル』(1982年、311分)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年、229分)など、長くなるにはそれなりの理由がある。その理由のみつからない長尺ものは駄作になる危険性がある。

この映画の長さの理由は、ストーリー展開にそれが必要であったのではなく、ストーリーに映像的効果(それに付随する音楽的効果)を与えるために、何としてでも自信のもてる映像の連続とタイムリーな音入れが必要だったからだろう。

それらがストーリーと相乗効果を上げればすばらしいが、ストーリーの提示がストレートでないため、ストレートにうったえかけてくる映像/音楽とストーリーとが乖離してしまっているようだ。当然ながら、ストーリーをそうさせた要因はなんだろう、と考える。


いつも言うことだが、心理の表現はそれほど困難でないとしても、観念の映像化は難しいのだ。この雄一という少年の心理は、観念そのもの、または観念の揺れあるいは観念が自転するという運動から溢れだしてくるものなので、心理表現だけを追っていても少年の観念そのものには追いつかない。社会的には犯罪と言われるできごとを身近にして、心理だけでなく、この少年の観念作用にも大きな影響があると踏んだ<読み>は当たっていると思う。


映画である以上、心理の表現に、適確な音楽や映像が切り取られて使われるように、観念の変化にも、それ以外の手段で臨むことはできない。とすれば、ストーリーの組み換えか、撮り方や演技に対する演出の問題ということになる。

繊細なテーマを扱っているわりには、夜の畦道を走るシーン、駐車場でのひったくりのシーンなど、わりと粗雑できめ細かさがなく、いちいち全景パンフォーカスだけに頼るので、映像上のダイナミズムを感じない。特に前半が退屈に感じられるのは、そのへんに原因があるだろう。


さらに全編ほとんどと言っていいほど手持ちカメラで、また、文字を読ませられるため、ほとほと目が疲れる。

ストーリーにおいて、雄一の主観が<主役>なのかと思ったら、雄一を含む仲間という日常が主軸になり、場所的背景も田園地帯や沖縄などと映像的必然性がないので、観ているほうは焦点が定まらず、振り回されてしまう。まさか、この映画は焦点を定めないのがウリなんだ、ってことはないだろう。

活字を出して、映像を流すというのは、同監督の『市川崑物語』(2006年)でも使われた手法だが、セミドキュメンタリー風になることを承知であえて使ったのだろう。


大人の精神より少年の心理を描くほうが難しいと前に書いた。ヘタをすれば「中学生日記 THE MOVIE」みたいなものになりかねなかった。少年の心理の奥に見え隠れするエーテルの傾きを描き出そうとした意欲は認めたいと思う。

それにしても、映像にこだわりすぎて、どのシーンもほとんど暗い。暗い話は暗く、揺れる心は揺らして撮ればいいのか。

汚れたら必ずドビュッシーで浄化すればよいのか。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。