映画 『醉いどれ天使』

監督:黒澤明、脚本:植草圭之助、黒澤明、撮影:伊藤武夫、編集:河野秋和、音楽:早坂文雄、音楽:早坂文雄、主演:志村喬、三船敏郎、山本礼三郎、木暮実千代、中北千枝子、1948年、98分、白黒。


戦後間もないころの鉄道わきの闇市が舞台。

付近に開業している医者(志村喬)のもとに、やくざの三下奴の松永(三船敏郎)が、手に釘が刺さったと言って治療にやってくる。

松永のようすからして医者は、結核の疑いがあるから、レントゲンを撮るべきだと勧めるが、・・・・・。


『生きる』(1952年)より45分も短い尺に、ぎっしり詰まった人間模様や人間性をわかりやすく摘出した脚本が卓越している。

特にフレームに二人いるときの会話は、相当に推敲を重ねたセリフだろうと想像がつく。セリフの一句一句が力強さをもっている。

冒頭から出てくる、闇市と医院を隔てる薄汚い水たまりは、全編を通じ、そこに生活する庶民や自分勝手なやくざどもの存在を暗示している。


松永は肺結核を患い、それが重くなるにつれ、女(木暮実千代)からも縁を切られ、縄張りも奪われ転落していくようすは、ぶざまであり、みじめでもある。

医者のほうも、アルコール好きで、薄汚い身なりをしているが、バカ正直なほどに世話焼きで、芯の通った頑固者だ。

そして、人間が好きなのである。


この、一見、水と油のような二人の男は、大きな水たまりを挟むほどの距離にありながら、しかし毎日その同じ水たまりを見ずに生きることはない点で、心の底にあい通じるものを持ち合わせているのだ。

それでも医者の言うことに耳を貸さず、無鉄砲なことを仕出かしてむざむざ死んだのが、チンピラのあわれな末路となった。


水たまりを這うように撮るカメラ、会話中のツーショットに一瞬割り込む片方のアップ、海に浮かぶ棺桶のシーンなど、ここでも映像上の演出は多彩だ。

一輪の花、白いペンキ、悲しいギターの音色なども、ストーリーに味を添えている。


出てくる俳優はみな懐かしい顔ぶれで嬉しくなってしまう。

中北千枝子を最初に知ったのは、昭和40年代テレビでの、「日生のおばさん自転車で♬…」のCMだった。

17歳の久我美子も初々しい高校生役で驚きだ。

ラストをこの久我美子の再登場で締めたのは、予想できたが、効果的だった。


大変まじめに作られた映画だ。全編にみなぎる力強さ、人間性にまで踏み込んだ脚本、志村喬の場に応じて使い分ける演技、脇のストーリーを支える千石規子の存在も印象的だ。

三船はまだフレッシュな魅力のさなかであり、この後演技に磨きがかかる。木暮実千代はやはり、こういう役でしょう。飯田蝶子の顔も懐かしい。殿山泰司もまだ若い。


ギュッと凝縮された人間ドラマで、生死のドラマ、愛のドラマの萌芽とも取れる作品だ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。