映画 『めまい』

監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック、脚本 アレック・コペル、サミュエル・テイラー、原作:ボワロー=ナルスジャック、撮影:ロバート・バークス、編集:ジョージ・トマシーニ、音楽:バーナード・ハーマン、主演:ジェームズ・ステュアート、キム・ノヴァク、1958年、128分、原題:Vertigo


ヒッチコックの特集をやると知り、その昔わざわざ大井町の小さな映画館に出かけて初めて観たのが、この『めまい』と『裏窓』の二本立てであった。

その後何回観たかわからない。

子供ではなかったけど、初めて観たとき、本当に子供心に、内容以上に、映画ってこれだ!と思ったのを覚えている。

それほどこの映画は、画面がきれいで光がきれいでセットや小物がきれいで、映画はまず、美しい映像ありきだと、確信するまでに至らせた作品だ。


この二つなら、世間的には『裏窓』(1954年)のほうが評価が高いようだが、『裏窓』はストーリーが行き届いていて清潔感があり、犯罪は男女の彼岸にあるため、しかも「向こう側」で起きるため、世の道理にかなっていて、観客も「こちら側」の男女の目線で観ていることができる。

これに対し『めまい』は、好きになる女も此岸にいるので、おのずからストーリーの色調自体も猥雑となり、世の道理からはずれる男の行動に、観客が加担しなければならず、「向こう」と「こちら」の区別がない。


マデリンの存在はファム・ファタールとして、この映画をフィルム・ノワールに数える人がいるのも納得だ。

かろうじて「こちら側」が「あちら側」に行くのを抑えているのは、スコッティが元警察官であることと、その紳士な服装や物腰である。スコッティとマデリンに性的交渉もない。

たしかにこの映画のストーリーには、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める部分がかなりある。そうしたストーリーを越えたのが映像だ。

映像に対し脚本が負けてしまった映画はみっともないが、映像に期待した脚本をその映像が越えているのなら秀逸な作品となる。


ヒッチコックはこの映画で、さまざまな実験をしている。それは観てのとおりであるが、他にも、マデリンの衣装の色など、視覚に表現できるものはほとんど映像に表現した。

マデリンのグレーのシンプルなスーツは不安感を表したかったと言われ、ジュディの黒いイブニングはあたかも喪服のようなイメージだ。

初めに‘アーニーズ’でスコッティが一目惚れするときのマデリンの服は、背中も胸も大胆に開いたグリーンと黒のロングドレスであった。あのレストランのワインカラーの壁によく映える。

映像的にすばらしいところはいくつもあるが、ジュディと最初にデートして帰ってきて、あすの朝また会いたいとスコッティが懇願するシーン。ジュディはホテルの看板のグリーンのほのあかりの中に座るが、その横顔をシルエットで映す。スコッティはそこにはっきりとマデリンの面影を見るのだ。


サスペンスタッチの恋愛ドラマには、美女と、それを追うひま人男が不可欠で、男にとってはこんな優雅な時間はない。

ジュディをマデリンの外見に近づけるため、着せ替え人形のように扱うあたりは、やや女性からは反感を買うのではないか。まだ愛してる、そのために、ジュディはスコッティの言うとおりに変身するのだ。


撮影で注目したいのは、湾に落ちたマデリンを救いスコッティが自宅に連れてきて、目覚めたマデリンとスコッティが会話するシーン。初めて話す二人の距離を表すかのように、ツーショットは極力控え、ひとりひとりをバストショットでイマジナリーラインでとらえ、ようやくコーヒーカップに手が重なり、恋を暗示する。

いろいろ批判されるラストシーンだが、これでよいと思う。より濃い色の絶望を残して、いきなり終わるのだ。この次にどんなシーンを入れたらいいというのだろう。


バーナード・ハーマンの音楽もすばらしい。映像を助けるのは音楽で、セリフのないシーンが多いこの映画では、音楽がなくてはならない存在だ。タイトルバックに流れる、ミステリアスな三連符のメインテーマも内容を象徴するメロディだ。

アップあり、遠景あり、林あり、海ありで、場面転換も手際よく、飽きがこない。

マデリンに化けたジュディとスコッティの抱擁シーンで、回りながら映す背後に、マデリンとの抱擁の思い出の馬小屋が移される。心憎い演出だ。

エンターテイメント性も備えた不朽のラブ・サスペンス。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。