監督:黒澤明、脚本:久板栄二郎、黒澤明、原作:ドストエフスキー、撮影:生方敏夫、編集:杉原よ志、美術 :松山崇、音楽:早坂文雄、主演:森雅之。原節子、久我美子、三船敏郎、1951年、166分、モノクロ、松竹。
166分の映画で、半分よりやや長い前半が第一部「愛と苦悩」、後半が第二部「恋と憎悪」。ドストエフスキーの原作を、戦後間もない札幌を舞台に変えている。
沖縄から復員してきた亀田(森雅之)は、青函連絡船のなかで、赤間(三船敏郎)という男に出会う。亀田は、戦争犯罪人として死刑を執行される寸前に、犯人が他にいたことがわかり釈放されたのだが、そのときの恐怖心から、白痴となってしまったのだ。
札幌に着くと、二人は写真館に飾ってある女の写真に見入る。それは那須妙子(原節子)といい、政治家の妾であったが、香山(千秋実)という男が、手切れ金を払ってまで妻にしたいという、いわくつきの美人であった。
亀田は知り合いの大野(志村喬)の家に一時身を寄せるが、その家の次女・綾子(久我美子)とは、互いに親しみを感じあうのであった。・・・・・・
当初は、4時間半近い長さの映画であったが、松竹の意向で、それでもここまでの長さになったという。黒澤はそれを不満とし、フィルムをカットするなら、初めから終わりまで縦に切り裂いたらどうだ、と言ったらしい。
何はともあれ、観客は出来上がったものでしか判断できない。
雪深い札幌が舞台であり、室内のシーンも多く、かなりの部分が舞台上の会話劇のようだ。わずかな場面転換はワイプの多用に頼るしかなかったのだろう。
松竹が短くしたため、それを補おうと、冒頭何回か、主人公らの説明文が画面に出る。さらにまた、過不足ない会話として完成されたのではあろうが、やはりセリフが多いシーンがある。
白痴と言われても、純粋に他人を愛することがどういうものか、がこの映画のテーマである。
そのテーマを映像化して指し示すのには、やはり限界はあるが、この巨人のような文学を、かなりの程度まで映像化しているのは、神経質なまでの演出、カメラ、編集で、何も近道や奥の手はない。
いままで何回か書いてきたけど、純文学の映像化は、内容をつかみとった脚本が最重要で、それに沿って動くカメラワークと俳優の演技力、この三点が不可欠だ。
三船と原は31歳、森は40歳だが、久我はまだ20歳だ。20歳の当時まだまだ駆け出しの女優が、キャリアを積んだ俳優のなかにあって、よくこれだけ演技をしていると感心する。今のパンスケ女優など足元にも及ばない。
初めのほうにある、北大ポプラ並木での亀田と綾子のシーンは、後半で二人が恋仲になることを暗示するすてきなシーンだ。
終わり近いところでは、赤間のへやに四人が集まり、アップを含め、かなり至難の演技を要求されるシーンがあり、またそこはこの映画全体のヤマになるところであるが、森、原、久我の演技合戦はおもしろい。
妙子を殺したあと、赤間と亀田が、ストーブもつけず、蝋燭の灯のなかで語り合うシーンの三船と森の芝居もうまい。
他にも、東山千栄子、千石規子、左卜全ら演技達者が集まっているが、しかし、誰にも増して、森雅之の表情やふるまいの演技はすばらしい。
白痴という純心は、充分に描かれていると思うが、それだけにやはり、演出の故意さが目立ち過ぎて、映像としてさらにメリハリをつけてほしいのである。
無論、回り込んだり、下から撮ったり上から撮ったり、フレームのなかをいじくったりしているようすはよくわかるのだが、今観るせいなのか、どうも、遊び心のない映画になってしまっているのだ。
しかたないのだろうな…時代もある…だから、私は個人的に、黒澤の映画は教科書と呼んでいる。
教科書は最低限、必要不可欠の中身を持っていて、完成度が高く、誰からも参考にされる誠実なつくりであるが、おもしろくはないのだ。
0コメント