監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本:ギレルモ・アリアガ、原案:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ギレルモ・アリアガ、製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、撮影:ロドリゴ・プリエト、編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン、音楽:グスターボ・サンタオラヤ、主演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、役所広司、2006年、142分、原題:Babel
前半やや冗長だが、少しずつ締まっていき、ラストに向けてシンフォニーが盛り上がるように終わった。
といってストーリーの内容は決して明るいものでなく盛り上がっていく話でもなく、ある意味一貫して、老若男女問わず、人間が無鉄砲な存在であると同時に、そんな人間どもでさえ自分ひとりの意志のみでは生きていけないという 、生の現実を紡ぎだしている。
それはむしろ、社会における人ひとりの生活の行方や、生まれつき縛られている生のありようをそのまま掴みだそうとする実験だ。
この実験では、単純に、国家と個人、警察と容疑者、おとなとこども、という、タテに割る軸ではなく、ヨコ方向へ不規則に流れていく液体のように、各種の人間模様を、人間のとる自然な成り行きにまかせて、さらけ出してくれる。
それぞれの国の事実は、メッセージの提供のきっかけになるという限りにおいて重要ではあっても、個別に悲しんだり哀れんだりすることに専念すると、ただの寄せ集め画像となり、オムニバス化して見てしまうことになる。
それを避けるため、中盤から小出しにしながら時系列をそろえていくほか、それぞれの場での変化を、まるで取ってつけたように一様に同じような長さと向きのベクトルに乗せてしまう。
そのベクトルは、一旦、観客を、目の回るようなどん底に落としながら、すこしはめまいが治まるくらいには落ち着かせる程度の作用はしている。画面上は同時進行する各場面のバランスをとるためもあっただろう。
ようやく病院で手当てを受ける妻、実は僕が殺したと白状する少年、強制送還されるメキシコ女性、産まれた姿のままで父親と抱擁する聾唖の娘・・・。
妻は片腕を失ったか、残された父子はどうなるか、幼い二人の子供はどうなったか、父と娘はしっくりいくのだろうか、などといったことには関知しないのだ。
結局は、一丁のライフルの弾が、人々の運命を翻弄してしまったのだが、といって、モノであるライフルに責任を問うことなどできるはずもなく、ライフルもバスと同様に単なる手段にしか過ぎない。
では、ライフルで遊んでいてバスを狙った兄弟に責任を問うことができるのか。法的な意味合いでは有罪であっても、そうした次元の話だけにこだわってはいない。
メキシコ女性も、誠実に子守の仕事をこなしていたにもかかわらず、自分にも非はあるにしても、息子の結婚式に出たあとは、結果的にはその誠実はなんらの報いも受けることがない。
聾唖の娘はこの映画のなかで最も現代先進社会を象徴していて、まわりの男や社会からこぼれた自分しか自覚できず、心身ともに乾いた状態を強いられている。
人の世というのは、なかなかプラスマイナスの帳尻が合わない。
こうした状況を取って出しはするが、それぞれの個人に同情もしないし、といって説諭もしないのが、この映画のスタンスとなっている。
この映画が伝達しようとしたものは、ある複数の事実ではなく、人のいる状況《全般》なのだと思う。
その状況とやらは、状況であるがゆえに、いつどこから来て、いつどのように・どちらの方向へ変化していくか、そこにいる人間でさえわからない。
人間は言語の使用や意志の存在によって、動物と区別されているが、その言語や意志を通じさせる手段まではもちえても、確実に意味として通じていくのか・通じているのか、について、何の確信ももてないまま、対象となる人々により動かされていく。
結果的に、悲劇だったとか、幸福だったとか、というのは、権力によるのではなく・その場で共有される時間によるのでもなく、物理的・経済的状況の推移のなかのひとコマにしか過ぎないのだ。
この映画は、その断面をつかもうとした実験だった。
こうした実験なら歓迎する。
どう整合性をもたせればいいのか、なかなかまとまりのつかない映画なので、ある意味、難解な部類に入るかもしれない。ただの事件モノと見てしまうと、一挙につまらなくなるだろう。その危険性は充分ある。
背後に、実に観念的な意図をはらんだ映画で、当然賛否は別れるだろう。
『バベル』というタイトルも、一見分裂したそれぞれの社会であっても、根底には、公約数としての「状況」なるものが存在し、しかもそうした「状況」に、人間諸個人はあらがえない、ということまで含めた象徴と言える。
兄弟の弟のほうが岩陰でオナニーするシーンがあるが、このシーンだけは不要だという批判があるようだ。たしかに必要でもないけど、ヨーロッパ系、特にイタリア系、スペイン系の映画にはよく出てくるシーンだ。石に乗って、牧童が羊を後ろから犯すようなのもあった。女の子がコンドームを、変な形をした風船と思ってふくらまし、顔にかぶって追っかけごっこをするというのもあった。
男の子の日常のほんの一瞬として描かれているだけで、どうってことはない。
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