監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、脚本:ギレルモ・アリアガ、製作:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ロバート・サレルノ、撮影:ロドリゴ・プリエト、フォルトゥナート・プロコッピオ、編集:スティーヴン・ミリオン、音楽:グスターボ・サンタオラヤ、主演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ、2003年、124分、原題:21 Grams
テーマらしきものがあるとするなら、何度か出てくる、
‘Life goes on’
ということ。
命はつながっている云々でなく、人生は続いていくもの、であり、言い換えれば、死んじまっちゃおしまいだ、と取った。
いろいろな人間が心臓によってつながっていて、さまざまな運命をたどる、をテーマにしているとするなら、それは不成功に終わったと思う。
何とも鼻につく映画で、同じ監督の次の作品『バベル』(2006年)よりメッセージ性も少なく、力強さもない。役者の演技力だけは別物だ。
もしそれを反省して『バベル』を撮ったのなら、その意味でこの作品は役に立ったと言える。
まず、脚本に無理がある。キリスト教の説教よろしく、大変念のいった内容に仕上げてはいるが、心臓提供者の妻クリスティーナに惚れたから→そのクリスティーナに言われたからといえポールは加害者の男を殺そうとする、初めは夫の心臓によって生きているポールを悔しく不愉快と感じ追い出した妻が→そのポールと寝る、あとをつけてきた加害者の男と格闘になるなか→クリスティーナが男を殴りつけている様を見てポールは自殺を図る、などは全体の流れからして強引で不自然だ。
撮影についても、むやみにハンディが多く、故意に粗いフィルターをかけるなどの意図がわからない。過剰で脂ぎった演出も気になる。
内容的に、多少の時系列の差し替えは必要になるのもわかるが、それも過剰であって、内容の本筋をぼかしまではしていないが、無駄なことはしなくてもいいのでは、と素朴な疑問を投げたくなる。そこはさっぱりと回想シーンでもよかった。
この映画が、何か言わんと必死であるのに、必死さの汗の匂いだけがして、うったえる力をもたない最大の理由は、ストーリーが一本調子だからだ。いくら時系列で遊んでも、それは隠せない。
サブストーリーと絡めてじっくりメインを語っていけば、もっと優れた作品になったと思う。
三者が平面でのみ語られているから、命がどうのと言われても、話に厚みを感じない。三者を同じ比重で描こうとしたので、おそらくは作者の意図とかけ離れた感想をもつ受け手がいてもおかしくないのだ。
ストーリーにそうしたゆとりがないから、呼吸を止めて鑑賞させられているかのように感じる。
ただ、こうした息つくヒマを与えぬ高尚なテーマ?の映画は、アカデミーやカンヌでは受けがいいだろう。
これら弱いところを償うためには、どうしても時系列の分散、過剰な演出、役者の演技力に頼らざるを得なかった、というのがよく見える。
それにしても、ここ数年の映画には、時系列をいじくったり、あとがしぼむようなどんでん返しをしたりと、小手先で映画づくりをしているようなものが多い。
欧米の映画はこういう方面にいくしかないのだろうか。従来からの邦画のほうが、より職人気質の仕事をしているように思えるのだが。
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