映画 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

監督:フィリダ・ロイド、脚本:アビ・モーガン、撮影:エリオット・デイヴィス、編集:ジャスティン・ライト、音楽:トーマス・ニューマン、主演:メリル・ストリープ、ジム・ブロードベント、2011年、イギリス映画、105分、原題:The Iron Lady


老婆が店で牛乳を買う。その後、家の中で、夫と向き合って、朝食をとる。夫デニスと向かい合っていたはずだが、次のカットでは消えている。

デニスは他界しており、認知症のマーガレットには見えるということで、多くのシーンンで二人が登場し、その上で、マーガレットの幼少期、二人の出会いと政界入りから引退までを、実際の映像フィルムを挿入させながら描いている。実際のフィルムには、現役時代のサッチャーの後姿しか見せず、デニスが映っているところもない。


観終わって『ブラックスワン』(2010年)と似た感想をもった。主演だけが目立って、映画としておもしろくも何ともなかった。『ブラックスワン』はバレーのシーンなどがあるおかげで、まだエンタメ性があるかのように錯覚させていたが、実際はエンタメ性はほとんどなく、監督の映画理論が優先した作品であった。その映画セオリー自体もないのが本作品であった。

ただ、誠実に丁寧に作られていることだけは認めよう。


アメリカ映画のエンタメ性に慣らされているせいか、イギリス映画、特に舞台の脚本畑を歩んできた人間の脚本は、堅苦しく感じる。よくいえば几帳面で紳士的なのだろうが、ひたすら淡々と進んでいく展開に飽きがきてしまう。

回想ゆえに時系列を乱し、そのつど思い出されることに順番がある必要はなく、実際この映画でもそうなっている。マーガレットの少女時代や新米のころのようすがアトランダムに回想される。ここまでできるのなら、もっとおもしろい仕上がりにできたのではないか、と惜しくなる。


マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)は、本作品制作当時、認知症になったとはいえ、存命であり、かつて現役のイギリス首相であった。現役時代の姿も引退後の老いた姿も、Youtubeなどで簡単に見ることができる。その人物の生涯を、あえて映画化しようというのである。

果たして、自伝ものにしては、政治的な活躍シーンはあまりない。といって、女の一生に絞るのであれば、何もサッチャーでなくてもよかったはずだ。


政治家サッチャーの政界入りとその後の苦労、政治的駆け引き、政治家としての苦悩などがあって初めて、それを踏み台として、家庭での母親や妻としての姿や女としての弱さなどが浮き彫りになるはずである。

しかも、現在と現在からの回想を行ったり来たりして、その比重はほとんど五分五分である。ということはつまり、若々しいメリル・ストリープと、老婆となったメリル・ストリープを同じ長さで見せられるのである。


政治家サッチャーなのだから、タイトルにもしたような鉄の女らしさをもっと描いてほしかったし、そこで初めて、その孤独、悩み、涙というものが、鮮烈に甦ったはずである。鉄の女らしいところはわずかに短い2カ所くらいの会話シーンであった。

現役時代のホンモノのサッチャーを知っている人間としては、現役時代の実物のほうがおもしろかった。女性首相というだけで、いろいろな想像力も働くからである。


髪型や発音のしかたや声などは、ホンモノにそっくりで驚いた。老婆のサッチャーは頬から首筋まで特殊メイクをしており、これはみごとで、メイクアップ賞をとるのは納得できる。


映像的な遊びもほとんどなく、まるで高校生向きの文部科学省選定映画のような映画であった。似たような感じと言った『ブラックスワン』の、あのアクの強さのようなものもないし、motion picture としてのメリハリもない。メリル・ストリープ演ずるマーガレット・サッチャーは、サッチャー以外の anyone でもよかったようなつくりだ。「宰相にまでなった英国の女性政治家の苦労話」であって、「マーガレット・サッチャーその人」は、果たしてそこにいただろうか。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。