映画 『ハングリー・ラビット』

監督:ロジャー・ドナルドソン、脚本:ロバート・タネン、ユーリー・ゼルツァー、撮影:デヴィッド・タッターサル、編集:ジェイ・キャシディ、音楽:J・ピーター・ロビンソン、主演:ニコラス・ケイジ、ジャニュアリー・ジョーンズ、ガイ・ピアース、2011年、106分、原題:Seeking Justice


原題は、正義を探して、だが、よく出てくるキーワードは、腹の減った兎は跳ねる、だ。


高校教師ウィル(ニコラス・ケイジ)の妻ローラ(ジャニュアリー・ジョーンズ)が、ある日帰宅途中、車に乗ろうとしたところを襲われ、暴行される。

知らせを聞いて病院に駆けつけたウィルは、顔も傷だらけになったローラの姿を見、ショックを受ける。

ロビーにいると、ある男が近づき、犯人を殺してやるがどうするか、と聞く。この男サイモン(ガイ・ピアース)は、犯人の居場所はわかっており、復讐にはカネはかからないと言う。この街には今、こうした犯罪が多く、警察も頼りにならず、裁判になっても一年足らずで出所する、であるなら、自分らが犯人を懲らしめてやる、というわけだ。

一旦躊躇したウィルだが、その話に乗ってしまう。

しかし、その半年後、サイモンはウイルに近づき、幼児虐待の犯人を殺してもらいたい、と依頼する。・・・・・・


何やら、必殺仕置人のような設定であるが、実はこのサイモンの属する組織は、悪人ばかりを退治するのではなく、組織自体が殺人集団化しており、その組織の正体を暴露しようとする者までも殺してしまうようまでに、エスカレートしていた。ウィルが殺せと言われた相手は、まさにこのネタを掴んで暴露寸前まで取材していた記者だった。

『ダーティ・ハリー2』(1973年)に、まともな裁判では裁かれない悪人を、警察の白バイ隊員らが、陰で始末するというのがあった。その指揮をとっていたのは、何とハリーの上司であったが、この展開に似ている。

違うのは、ウィルは警官ではなく、ごくふつうの一般市民であり、その市民が、飢えた兎は飛び跳ねるを合言葉に、復讐をしてもらった者は、今度は他の被害者の復讐をするという連鎖に、巻き込まれてしまうという点だ。


政治的謀略などでなく、ごく普通の市民レベルでのサスペンスアクションで、テーマとして身近に感じるし、うまく観ている者を引きずりこんでくれる展開と演出がうまい。

妻が乱暴されれば、夫たる者、誰しも犯人を懲らしめようと思うが、犯人はどこにいるかわからず、仮に逮捕されても軽い罰で自由になるのではたまらない。それでも、代わりに誰かに仕返しを頼むということもまた、聞いてすぐ賛同できるものでもない。

一旦躊躇するが、その場で依頼する、という話にもっていくためだろう、事件の起きるまでに、いかにこの夫婦が仲睦まじいかが、丁寧に描かれる。この冒頭から事件直後までの導入はみごとだ。ニコラス・ケージの演技も確かで、ジャニュアリー・ジョーンズの魅力的な美貌とが、各シーンで自然にきれいな絵を作っている。


ストーリーは、半年後、サイモンがウイルに別の依頼をもちかけるところからが本番となるが、ウィルが断ると、サイモンは逆にローラに危険が及ぶように脅迫して、ウィルにある件を実行させるのだ。

ガイ・ピアースも、坊主狩りにスーツで登場し、どう見ても、ただの代理殺人請負人には見えない。どこか胡散臭く、何か背景があるのだろうと予想させる芝居も、なかなかうまい。

舞台がニューオーリンズであることも、このストーリー展開にひと役買ってるいし、そのためか黒人の登場も多い。

変に入り組んだストーリーにせず、シンプルなサスペンス仕立てにしたのが功を奏したが、もうひと捻りほしかった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。