製作・監督:ルキノ・ヴィスコンティ、脚本:ルキーノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バダルッコ、原作:トーマス・マン『ヴェニスに死す』、撮影:パスクワーレ・デ・サンティス、編集:ルッジェーロ・マストロヤンニ、音楽:グスタフ・マーラー、主演:ダーク・ボガード、伊仏合作、カラー、1971年、131分、原題:Death in Venice
作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は、静養のため、ベニスを訪れる。
海岸沿いにある高級リゾートホテルには、貴族や貴婦人が多数集っていた。アッシェンバッハは夕刻、食事のためロビーに下りる。そこで新聞を広げてくつろぐが、大勢の客のなかに、美しい少年を見出す。
その少年の美しさに惹かれ、海岸で休むときも、食堂にいるときも、その少年を目で追う。初めはその美しい少年タッジオも、ふつうにいたずら好きな子供に見えたが、やがて、自身の音楽家としての理想と少年の美しさが共鳴・一致していくにつれ、アッシェンバッハはタッジオに心奪われ、疫病のはびこる街で自らそれに感染したことを知りながら、そこを去ることもなく、海岸に立つタッジオの姿を見ながら、病死する。・・・・・・
トーマス・マンの原作にある小説家をここでは作曲家に換え、冒頭からマーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」の甘美な旋律が随所に使われる。男色家ヴィスコンティがヨーロッパ中を探して見つけたビョルン・アンドレセンを少年役に抜擢し、ダーク・ボガードがほぼ表情だけの難しい演技を担わされ、肉体派女優としてキャリアを積んだシルヴァーナ・マンガーノをタッジオの清楚な母役とした。
この作品は、時折アッシェンバッハの過去のようすがフラッシュバックによって挿入されるが、それをも含め、物語は一貫して、アッシェンバッハのいわゆる「イッヒロマン」である。過去のシーンでアッシェンバッハが友人で同じく作曲家のアルフレッド(マーク・バーンズ)と議論するシーンや、ホテルのもったいぶった支配人と短い会話をするシーンなどを除けば、現実にアッシェンバッハがタッジオやその母と話すシーンはない。
つまり、この作品には、客観的にそれとわかる大事件も大事故も争いもアクションもない。ひたすらアッシェンバッハの内面の変化を追うのみである。それだけに、あらかじめ内容について噂でも耳にしていないかぎり、退屈な一編となってしまうおそれがある。
ヴィスコンティは、当然ながら、そんなことは百も承知であり、そうであるからこそ、映像に懲りまくったのだ。重要なシーンともなれば、一日がかりのリハーサルを行ったとも言われる。
絢爛豪華な貴婦人の衣装や帽子は、この映画の象徴である。冒頭、アッシェンバッハがロビーに降りてきて腰掛け、タッジオ一家が去っていくまでの長回しを入れた8分近いシーンでは、そこに映る全員の動くタイミングを計っているような鼻につく演出がなされるが、その灰汁の強さは、観る側に、アッシェンバッハの置かれた<環境>を知らせるに充分である。
アッシェンバッハのやや小心で神経質な性格は、オープニングからしばしば見られ、美に対する理想に燃える芸術家の素顔は、現実には、かほどまでの日常かと観ている側を呆然とさせる。過去シーンにあるアルフレッドとの端的な<芸術論争>は興味深い。
アッシェンバッハとタッジオに会話はないが、何度となく目を合わせるシーンはある。初め、美しいとはいえ、たかが十幾つの少年に目を奪われる自分に嫌気がさしベニスを後にするが、荷物移送の手違えという<幸運>に導かれ、アッシェンバッハはまたホテルに戻る。
この<神のいたずら>は、今度は、アッシェンバッハの心をして、本格的に美に囚われるよう仕向けるのである。
ベニスの街に疫病が蔓延していることを知りつつ、アッシェンバッハはタッジオに心奪われ、意図してそこから離れることができない。消毒薬が撒かれる街中を、タッジオを追いつつ、ついに道端に倒れ、空を見上げて自嘲の笑みを浮かべる。この時点で、アッシェンバッハは、タッジオという<美と心中する>ことに身をまかせた。
アッシェンバッハは、髪を漆黒に染め、おしろいを塗り、口に紅をさし、一輪のバラを胸に、タッジオを見つめる。アッシェンバッハをして音楽家としてのプライドも体裁も捨てさせ、ピエロのような滑稽な姿のストーカーまがいの男に堕させたのは、タッジオという崇高の美のなせるわざであった。
満足であったか? アッシェンバッハよ!
なお、ラストをはじめ、砂浜で時折映る三脚に乗ったカメラは、ヴィスコンティが、<私もここにいる>という存在証明と理解している。そう、おそらく、ヴィスコンティはアッシェンバッハになりたかったのだ。
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