監督:黒澤明、脚本:黒澤明、菊島隆三、久板栄二郎、小国英雄、原作:エド・マクベイン『キングの身代金』、撮影:中井朝一、斉藤孝雄、美術:村木与四郎、照明:森弘充、音楽:佐藤勝、主演:三船敏郎、仲代達矢、1963年、143分、モノクロ(一部カラー)、東宝。
横浜市内の丘の上に、白亜の豪邸を構える製靴会社常務・権藤金吾(三船敏郎)の元に、息子を誘拐したとの電話が入り、身代金として三千万円を要求する。実は誘拐されたのは、権藤の息子ではなく、一緒に遊んでいた権藤付きの運転手・青木(佐田豊)の子供であった。
会社内の株の占有をめぐり、五千万円の小切手を用意したばかりであったが、結局権藤は、子供を救うために、犯人の要求に応じることになる。・・・・・・
黒澤明の現代劇として『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)と双璧をなす作品で、出演者も多く共通している。黒澤自身が「徹底的に細部にこだわる」と言い放ったように、台詞、演技、俳優の立ち位置、声の高低、カメラ技法、照明、音入れ、風景の撮り方、小道具の類いに至るまで、すべてのジャンルに監督のこだわりをうかがい知ることができる。
ほぼ前半が、権藤邸の居間を中心に会話劇が進み、特急の窓から現金の入ったバッグを落とすシーンまで、後半は、卑劣な犯人を追及する刑事グループの活躍と犯人逮捕に至るまでを描いている。
前半はまさしく一室内の舞台劇そのものであり、そうであるからには当然のごとくカメラが動かねばならないが、長回し、横移動、クローズアップ、仰角、会話の途中でのカットと編集など、工夫が凝らされている。
そのやや冗長かと思われる舞台劇は、権藤が特急に乗り込むところから大きく転換し、犯人を8ミリで撮るあたりまで、手に汗握る緊迫感を醸し出し、あたかもわれわれも列車に乗り合わせたような錯覚を起こさせるほどのリアリティをもって、映像自体がこちらに迫ってくる。
後半は捜査担当の主任警部・戸倉(仲代達矢)を中心とした犯人追求劇となる。犯人の残したわずかな手がかりを元に、刑事たちが組織的な分業のもと、犯人を追い詰めていく。足で犯人を追う刑事たちの苦労を交えて描くことで、正義の実現も、理想論だけに終わらず、時間と戦いながらの地道な努力によるものだということを教えてくれる。後半からは、それまでは声だけしか聞けなかった犯人・竹内(山崎努)が、その姿を頻繁に見せることになる。
細部にこだわったと言いつつ、この犯人が、なぜ他の資産家ではなく権藤を狙ったのか、刑事たちが犯人を確信する決め手となった犯人の左手の傷はいつなぜついたのか、このあたりはっきりしないが、全体の流れからして落としてもいいと判断したのだろう。
身代金目的の誘拐という卑劣な犯罪に対し、権藤一家や刑事たちは<正義>である。
黒澤の映画には、正義が描かれる。正義が勝つとも限らない。現に『悪い奴ほどよく眠る』では、正義が勝ったとは言えない。正義と悪との対比があればこそ、三船や仲代の豪胆な演技が生きてくる。
犯人は医学生であるにもかかわらず、自分の住む空調のない狭いアパートから見える権藤邸は、資本主義の象徴として倒す相手というより、貧富の差を日々否が応でも思い知らされる象徴であり、その個人的恨みから、医学の知識を利用してこの犯行に至ったのだ。
ラストで、竹内は、死刑執行前に、権藤との面会を望み、格子を挟み、権藤の前で負け惜しみを叫ぶ。権藤の前にシャッターが下ろされ終わりとなる。
女性の登場は権藤の妻役として香川京子が象徴的に出演するが、あとは当時、麻薬の巣窟といわれた黄金町で菅井きんが映るシーンくらいだ。黄金町に並び、繁華街である伊勢佐木町も映る。数年後、青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットとなる。
黄金町はその後映画館の並ぶ繁華街ともなったが、伊勢佐木町とともに、現在では当時の盛況ぶりは見られない。
黒澤作品は、全体にアクが強い。主張したいことを台詞や映像で徹底的に追求することになるからだ。結果的に、台詞や映像、演出が過剰になるきらいがある。それを<力強さの模範>ととるか<お節介な教科書>ととるかは受け取る側によるだろう。
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