監督:黒澤明、原作:芥川龍之介、脚本:黒澤明、橋本忍、撮影:宮川一夫、編集:西田重雄、美術:松山崇、照明:岡本健一、録音:大谷巌、記録:野上照代、音楽:早坂文雄、主演:三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実、上田吉二郎、1950年、88分、モノクロ、大映。(2008年、デジタル復元による完全版DVD)
土砂降りのなか、戦乱や天災により人心の荒廃した平安時代の羅城門(羅生門)に、杣(そま)売り(=焚き木売り)(志村喬)と若い法師(千秋実)が雨宿りをしている。二人は検非違使の前で、ある殺人に関する聴取を終えたあとであったが、その事件にかかわる三人の証言がそれぞれ異なることに、人間不信を感じていた。
そこへ、ひとりの野卑な下人(上田吉二郎)が雨宿りに来て、二人の話に関心をもち、事件の当事者三人の相異なる証言を二人から聞き出す。三人の証言はそれぞれ矛盾し、真相はいわば藪の中であった。・・・・・・
芥川龍之介の『藪の中』と『羅生門』を合わせ、黒澤明と橋本忍が脚本に書き下ろした作品。当時、日本国内より海外で高く評価され、ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞(最高賞賞、グランプリ)とアカデミー賞名誉賞を受賞したことで、日本映画の実力と再生を内外に印象づけた作品でもある。
羅生門はスタジオ内に作られた巨大なセットであり、ストーリーの舞台となっている。ここを元に、三人の証言がなされる検非違使庁の庭以外は、草深い林の中がロケの中心となっている。悪名高い盗賊、多襄丸(三船敏郎)と、武士(森雅之)とその妻(京マチ子)の三者三様の回想シーンがハイライトであり、このシーンはほぼ同じ場所での撮影となっている。
これら三人の証言は、自分勝手で自己中心的なものであったため、木を切ろうと山に入る途中、実際に事態のすべてを目撃している杣売りは人間不信に陥ってしまっている。
人間の本質を抉り出す、いかにも芥川龍之介らしい作品を元にしているだけでも、脚本上、得をしている感があるが、本当の出来事を杣売りが話し終え、一段落したところに、捨てられた赤子のエピソードが加えられ、杣売りも改心し、法師も人間を信頼することに目覚める。ラストは、ようやく雨が上がり日が射すなかを、赤子を抱いた杣売りが手前左に去っていく。人間不信を招くうっとうしい大雨は去り、明るい日がさすというわかりやすい演出だ。
本作品では、カメラワークが話題となった。フレームどりに特筆すべきものはないが、撮影方法にはいろいろな試みが見られる。
林の中を人物が早歩きするシーンでは、カメラは横移動だけでなく、離れた地点からパンしながら人物を追うという手法で、いかにも横移動と同じような効果を出している。木々の生い茂る斜面にカメラの線路を引くことは容易ではない。
太陽をそのままカメラで撮っている。人物が林の中を歩くとき、その姿と交互に、カメラは空を見上げ、木々の間に見え隠れする太陽を撮っている。
三人が異なった証言をする場所のシーンでは、自然光をそのまま役者に当てようと、レフ板を使わず、大きな鏡に日光を当てて反射させている。時折、役者の顔などがやけにギラギラ見えるのはそのためであろう。
他に、羅生門に降る雨を効果的に見せるため、大量の墨汁を混ぜた水にするなど、黒澤らしいこだわりもある。
当時30歳の三船敏郎は、この作品を契機に「世界の三船」として知られるようになり、自分から眉を剃ってオーディションに臨み、役を得た当時26歳の京マチ子の体当たりの演技は迫力がある。その後、悪役の多くなる上田吉二郎は、本作品のなかでは唯一、人間のエゴそのものを象徴しており、あの特徴ある笑い方はすでにここに始まっている。
森雅之は好きな俳優だ。本作での武士の役は、森雅之の目の演技なしには成立しなかったであろう。
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