監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エヴァ・ピャスコフスカ、イエジー・スコリモフスキ、撮影:ミコワイ・ウェプコスキ、編集:アグニェシュカ・グリンスカ、音楽:パヴェウ・ムィキェティン、主演:ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、ポーランド・アイルランド合作、ポーランド語、2015年、81分、原題:11 Minut
イエジー・スコリモフスキは、23歳のとき、28歳のロマン・ポランスキーに請われ、二人で同監督処女作となる『水の中のナイフ』(1962年)の脚本を書き、ヴェネツィア国際映画祭・国際映画批評家連盟賞を受賞している。同作品は、第36回アカデミー賞外国語映画賞にポーランド代表作品として史上初めて出品され、ノミネートされるに至った。
言われてみれば、この映画も、『水の中のナイフ』を彷彿とさせる。
左目に痣をつくった男の新妻は女優であり、映画監督らしい男のいる高層ホテルの一室を訪れる。男の痣は、どうもこの映画監督の男に殴られてできたようで、その仕返しのためと妻の浮気が心配で、このホテルに向かい、多少狼狽し躊躇しながらも、消火器でドアを叩き壊し、ようやく室内に入ることができたのだが・・・・・・。
あえてストーリーの中心を見つけようとするなら、この話だけであり、これと平行して何人かのエピソードが語られるに過ぎない。同じホテルの一室で、ガールフレンドの持ってきたポルノビデオを飽き飽きしながら見る窓掃除の男、出所したばかりのホットドッグ屋、男にフられ、連れていた犬を押し付けられる女、浅はかな質屋強盗をひとりで仕出かし失敗する青年、麻薬を売った女と一発やって亭主の帰宅に慌てふためいてバイクで去っていく売人など、ロクでもない連中ばかりが登場する。
その彼らが、「最後はいっしょになる」運命であり、都会に生きるそうした人間たちの時間プロセスが、断片的に描かれていく。
こうした技法を群像劇として宣伝しているが、古くは『グランドホテル』(1932年)のように、それぞれの人物がドラマをもち、その掛け合いの後、大団円に収斂するのが、群像劇の意味であり、この映画はそこからは大きく脱線している。
同じ時間の出来事を、キャラクターごとに見せたり、時間を前後させたりするという点で、むしろ、『エレファント』(2003年)や『桐島、部活やめるってよ』(2012年)と同じ手法であり、突然、カオスを迎えるという点では、予知夢のない『ファイナル・デスティネーション』でもある。
こうして、いろいろな映画を観、いろいろな出来事を経験してきた老齢の監督の作品としては、当然ながら、特に目新しい部分を発見するほどではない。
むしろ、この映画の圧巻はラストのカオスそのものではなく、そこから引いていくカメラなのだ。カオスの現場から引いていくカメラが、実は・・・という「落ち(オチ)」なのだ。この映画に、ストーリー上のオチなどあるはずがない。むしろ、映像上のオチこそ監督の意図なのだ。ラストの出来事のあとに、もったいぶった末にようやく出してくるのである。
このオチを効果的にするためには、登場人物に地位や名誉のある人間も高尚な人間的からみも要らなかったのである。スケベ監督やドラッグの売人、強盗に失敗する少年、或いは、客に出すルームサービスの料理をひと切れ食べてしまうルーム係、ホットドッグ(=ペニスの象徴)を頬張る尼僧たち、で充分だったのだ。大仰なキャラクターでは、オチが霞んでしまうのである。
それが証拠に、エンドロールのあの字の小ささに注目したい。故意にポイントを小さくした文字を並べて、俳優名・役柄名など読めなくていいのだ、と言わんばかりである。膨大な数のモニターが映し出す都会の光景に、個人名は初めから不要なのである。
さらに、この映画の個性は、音と多彩な映像にある。この映画には音楽らしきものがほとんど入らない。あったとしても、故意にヴォリュームを下げて、聞こえるか聞こえない程度に流すだけである。あとは、音だけだ。それもきれいな音とは限らない。
映像にはさまざまなくふうが凝らされている。カメラがキャラクター目線になるのはよくあるが、犬の目線になることもあり、強盗を仕出かす前の少年のように、何を見ているかわからないようなシーンもある。
筋がないようなものだから、逆に、象徴的でサスペンス風な映像を取り入れることもできたのだ。低く飛ぶ航空機、大きなシャボン玉、みごとな絵の描かれたカンバスに落ちた黒い絵の具の一点、など、カオスのあとの衝撃を予兆させる通奏低音である。
こうして、この映画は出来上がった。81分のほとんどを使って、都会に住む「たいしたこともしてない」人物たちの、ある日の午後5時過ぎの11分というわずかな時間と、彼らの向かうカオスを描いたのである。そして、これは、都会の「どこにでもある出来事」としてカメラが記録しているだけの事実に過ぎないことを、「どうっすか?」と提示してくれただけなのである。
この手間ヒマかけた<遊びの世界>で、戯れることができるかできないかは、観客個人個人の個性によるのであろう。戯れることができなかったからといって卑下することもない。戯れることができたのなら、楽しい世界の扉をまた一つ開けた、とは言えるだろう。
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