監督:市川崑、原作:三島由紀夫『金閣寺』、脚本:和田夏十(わだ・なっと)、長谷部慶治、撮影:宮川一夫、音楽:黛敏郎、中本利生(邦楽)、美術:西岡善信、主演:市川雷蔵、仲代達矢、1958年(昭和33年)、モノクロ、99分、大映。
配役は、吃りの若い僧侶、「私(溝口)」を市川雷蔵、柏木を仲代達矢、老師を中村鴈治)、「私」の母を北林谷栄が演じている。
第32回キネマ旬報ベスト・テン4位、男優賞(市川雷蔵)、第13回毎日映画コンクール男優助演賞(中村鴈治郎)、第9回ブルー・リボン賞ベスト・テン3位、撮影賞(宮川一夫)、男優主演賞(市川雷蔵)、男優助演賞(中村鴈治郎)、など多くの賞を受けている。
市川雷蔵にとっても、初の現代劇であり、その演技力は、『剣』(1964年)『ある殺し屋』(1967年)などに引き継がれていった。
市川崑・和田夏十夫妻の監督・脚本コンビは、この翌年、『鍵』(1959年)を完成させる。
『鍵』は、谷崎潤一郎の『鍵』を原作を、その内容と雰囲気を正確に掴み、全編を夏十が脚本化した秀逸な作品である。
この著名な映画は、今までたびたび見てきたが、映画として、常に釈然としないものを感じてきた。私のなかでは珍しく、座りの悪い作品なのだ。
レビューを書きやすいのは、大変感動したか、大変失望したか、のどちらかのときだ。
そう、この映画には、個人的には失望した。原作に、ではない。映画に、である。
『鍵』が天下一品の芸術だとするなら、『炎上』は、まことに、「おもしろみのない秀作」である。
すなわち、エンタメ性がないのだ。
脚本は、ほとんど書き直しの連続という難産の末に、これに落ち着いた感じがする。
ところどころに回想をはさむやりかたはうまいと思うし、溝口と母親、溝口と老師などの掛け合いのせりふも問題ないと思う。
映像は、職人・宮川一夫が丁寧に撮っており、初の横長のシネマスコープを、うまく使ったフレームどりをしている。陰影の効いたシーン、仰角俯角でたたみかけるシークエンスもすばらしい。
しかし、それでもなお、原作と微妙なズレがある。
三島自身も試写を見て、これを絶賛したというが、本心はどうか怪しいものだ。
『鍵』も『炎上』も、いずれも原作の映画化だ、と宣言している。
そして、『鍵』は映像として一級品になったにもかかわらず、『炎上』はそれになりそこねている。
前者がカラー、後者がモノクロということは関係ない。
その最も大きな原因は、主人公「私(溝口)」の心理描写に成功していない、という一点だ。
そもそも、吃りのせいで、暗く鬱屈した心の持ち主であり、その「私」が、父親の言っていた金閣を目の当たりにして、絶対的美を意識し、やがてその美が、醜い自分の心にしつこく投影し、しかもその金閣を至上の美として崇拝する「私」には、その「妨害」を如何とすることもできず、やがて心の彷徨(舞鶴への旅行)の末に、金閣を「焼かねばならない」と決意する、・・・・・・
ここまでの心理の変遷は、ほとんど映像化が不可能であり、夏十の実力不足とは言えない。
それでも何とか映像に残したかったという市川夫妻の熱意で、ようやくここまでこぎつけたのである。
『金閣寺』には、「私」に影響を与える人物として、同級生の鶴川と不具の柏木がいる。
この両者とも、「私」の心理からは離れたところで、「私」の金閣放火に間接的に影響を及ぼしている。偽善的な老師も同様だ。
これらのキャラクター描写が弱い。二人あるいは三人ほどの会話シーンでも、セリフは多く、掛け合いも間を置かないので、それが却ってキャラクターやシチュエーション描写の徒(あだ)となってしまっている。
100分ほどの映画にするために、象徴的なエピソードや独白が、かなり削られてしまっているのももったいない。
原作のあるものを、その原作に「忠実に」映画化するのは難しい。
あるいは、文字の並びで完成したものを、映像に変えて実現させることは、ありえてはならないことなのかも知れない。
逆に、映像化したら、そちらのほうが成功して、後から原作がヒットするということもある。
観る側は一介の視聴者だ。
恋愛ものであれ、サスペンスものであれ、戦争ものであれ、楽しめない作品(エンタメ性の低い作品)では、仮に大御所の作品でも、残念なのだ。
「おもしろみのない秀作」は、賞の対象になりえても、観る側の心に響かないのだ。
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