監督:三隅研次、原作:三島由紀夫『剣(けん)』、脚本:舟橋和郎、撮影:牧浦地志、編集:菅沼完二、音楽:池野成、主演:市川雷蔵、長谷川明男、昭和39年(1964年)、95分、モノクロ、大映。
「座頭市」シリーズや、「剣」三部作、「眠狂四郎」シリーズ、などの時代劇で知られる三隅研次。他に、『女系家族』(1963年)、『鬼の棲む舘』(1969年)などで知られる。
東和大学の学生、国分次郎(市川雷蔵)は、剣道四段で人望も厚く、後輩から主将に推挙され、監督もそれを認める。
国分は、部の統率者として、来年の大会に向け、増々厳しい練習を自他ともに続けていく。
一年の壬生(長谷川明男)は、国分を良き先輩として練習に励む。他方、賀川(川津祐介)は、同じ四段をもちながら副将にも選ばれなかった。
賀川は国分を揶揄するつもりで、いろいろやらかし、同級の真理(藤由紀子)を近づけるように細工するものの、国分は見向きもしない。
やがて、夏合宿を迎える。海に面した寺での合宿だったが、国分は、剣道には不向きだとして、合宿中は部員が海に入ることを禁じた。
辛く苦しい合宿も終わりに近づき、監督が合宿現場に来ることになる。国分は船着き場まで監督を迎えに行くが、その間に、賀川は残った全員に向け、海に行こうと誘い、みんなはそれに付いて行った。
壬生だけは国分を慕い、国分に従う気持ちから、ひとり海に行くことを拒んだが・・・・・・。
まさしく三島文学そのものの映画化であり、三島由紀夫自身の映画化といっても過言でない。
剣道を通じ、真摯一徹に稽古に励み、国分は、一切の遊び、不道徳、不謹慎というものを潔癖なまでに忌み嫌っている。美しい同級の女子学生を横にしても、不感であるのではなく、あえて興味を示さない。
それだけに、剣士として、剣道への心がけはひと筋であり、おのれの正義、純潔、誠実は譲らない。
町の不良どもと相対するとき、その正義感は出番を知り、意気軒昂で縦横無尽に活躍するが、テレビも見ず、麻雀もせず、人と交わらず、ひたすら剣にのみ打ち込もうとする姿勢は、少しずつ、仲間や後輩への負担となる。
部活であり目的もあり、剣道を通じて部員に厳しいところは、おのれの人生のありかたや価値観と重なっていたが、そこに、自分への反目を企む者や美しい女が登場したとき、国分はこれらを拒絶するしかすべをもたない。
唯一、最後まで国分を慕っていた壬生は、ひとりだけ海に行かなかったことを、かえって国分に偽善的ととられるのを嫌い、海に向かい、海から却ってきた仲間といっしょに戻ってきて、国分や監督と対峙する。
監督の詰問に、賀川は自分が言い出したと素直に謝り、罰を受ける。
深夜、外で、ただひとり信じていた壬生と遭遇し、国分は真実を尋ねたが、壬生は、自身も海に行った、と答える。
翌朝、林のなかに、自害した国分の姿があった。
ラストで、道場に集められた部員は、監督の説諭を聞く。
『金閣寺』では、金閣に放火した吃りの僧は、裏山から燃える金閣を見ながら、「生きよう」と思った。
本作では、国分は、部の統率をとれない自分のふがいなさを嘆いて、何も残さず自殺したのである。
そのきっかけは、信頼してくれていた壬生さえ、自分を裏切ったからなのか、賀川の、純潔とは言えない世間並みの「普通さ」「世俗さ」に根負けしたからなのか、判然としない。おそらく、それら全部であろう。
国分は、純粋さや、汚れを知らぬ正義感を貫き通そうとするあまり、世俗の汚濁にまみれるだろう将来を予感し、純潔な現在を「維持」しようとした。自害することで、「現在」が永遠となったのだ。賀川のふるまいや、虚偽を見抜けないままの壬生の背信は、そのきっかけとなったに過ぎなかった。
剣道部の話だから、道場での練習のシーンが多く挿入される。
練習シーン、全員が正座しているシーン、罰を受けて壁に向いて正座させられているシーンなど、撮り方や編集がうまい。
映像は終始、真剣そのものであり、作られた笑いのシーンはあるものの、純粋を押し通す国分の姿が、そのまま映像を支配しているかのようだ。
真理の登場シーンは華やかになるものの、それは常に、国分から遠ざけられた美しさである。
真理を演じた藤由紀子は、同じ大映の田宮二郎と結婚して映画界を引退する。
市川雷蔵は、「世俗」から見れば窮屈とも言える学生を、丁寧に演じている。長谷川明男、川津祐介も、新鮮な演技を見せている。川津祐介は、国分の手前、屈折した心理を垣間見せる賀川を、嫌味なく演じている。
国分でさえ、実は相当、屈折している。純粋さを貫くとはそういうことだ。
不良が空気銃で、大学の飼っている伝書鳩を打ち落とすシーンがある。通りかかった国分が不良たちを追っ払うが、そのあと鳩にしたことは、国分の他者に対する態度を、みごとに象徴している。
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