映画 『永遠の0』

監督・VFX:山崎貴、原作:百田尚樹『永遠の0』(太田出版)、脚本:山崎貴、林民夫、撮影:柴崎幸三、編集:宮島竜治、美術:上條安里、照明:上田なりゆき、録音:藤本賢一、音楽:佐藤直紀、主演:岡田准一、2013年、144分、東宝。


描きたいことはわかったが、映画として楽しめたかというと、そうでもなかった。

原作は読んでいないのだが、その映画化というなら、映画を観て、正直なところ、『永遠の0』の「0」の意味がわからない。まさかゼロ戦そのものではないだろう。「0」は何かの象徴だ。いろいろ想像や解釈はできるが、それが映画からはっきりとしたメッセージとして伝わってこない。


大東亜戦争を舞台とし、ゼロ戦操縦の妙手・宮部久蔵という人物を設定しながら、ここに描きたかったのは、おそらく戦争そのものやゼロ戦での戦闘以上に、戦争の最前線にいる若い軍人の、開戦から特攻までの生き様の心理的精神的変化であるように思える。

比重は後半に置かれ、そこに描かれるのは、いよいよ日々決死の状態にあるなかで、およそ当時としてはありえそうもない若い軍人の志や信念であっても、劣勢となった戦局や味方の死を前にして、あたかも軍人精神が再び頭をもたげたかのように、特攻へと自らを決意させる心理的収斂にあるようだ。


これは戦争映画というよりは、そこに身を置いた軍人の心理ドラマであるとみた。命を大事にするという信念をもちながら、最後に特攻を志願するまでになる、心理の変化、または苦渋の選択が描かれたものだろう。そこに日々身を置き続ける者の、限られた選択肢としか向き合えない無念さをも描いている。


どの小説の映画化も同じだが、言葉で言い表わしたものを、すべて映像に置き換えるのは困難であり、あるいは不可能である。

この映画も、なぜ・どうして、という疑問が、すべて片付けられて終わっていない。しかし、時間が迫ってくる、選択肢が決まっている、…そうした状況で、信念も理想も未来も括弧に入れて、いま・そのとき、を生きざるを得ない人間は、たくみに自らを納得させて、敵艦に突っ込んでいったとしか解釈のしようがない。


率直に言って、観終わって、映画としてよかった・おもしろかった、という感想をもてないのだ。

どんなシリアスなドラマでも、社会派ドラマでもサスペンスでも然り、映画としておもしろかった・楽しかった、と感じられなければ、映画としては価値がないと思う。それは人さまざまかもしれないが、おおかた生き残ってきた作品には、エンタメ性がある。


原因はいくつかあるが、脚本の責任が大きい。

現在と回想が交錯するのは、ストーリー柄やむを得ないのだが、ここで回想・ここで現在に変わる、という場合の合理性がない。つまり、妥当なシーンでないところでシーンが変わるので、振り回される。

語り部たる戦友の数が多い。且つ、彼らがみな、一本調子のセリフ回しでおもしろみがない。

初めに出てくる老人(平幹二郎)は、カットしても困らないだろう。これに関して言えば、他にも原作の多くの要素を詰め込みすぎているところがあるのではないか。


戦友役の俳優は、ぞれぞれベテラン級であるから、もっとクセのある演出をするべきだった。みなほとんど同じように見える。監督が俳優に遠慮している。カメラも動いていない。ベテラン俳優には、もっと演技させていい。言葉と表情だけだから、おもしろくない。この監督は、年配の俳優を使いこなせていない。井崎の現在を演じた橋爪功も、ミスキャストとは思わないが、メリハリがない話し方で、軽く感じてしまう。重みが感じられない。

そして、この映画に最大の欠陥があるとすれば、<宮部久蔵とゼロ戦>が描かれていないことだ。


戦友の語りからして、ゼロ戦は当時最高水準の戦闘機であり、宮部はそのゼロ戦を巧みに操る妙手であった。

この部分が前半のどこかにでも、どーんと置かれていないので、話全体に軸がなく、だからメリハリもなく一本調子になる。原作にないなら映画化したときに書き加えればよい。そうしても原作の基調は崩れない。

このゼロ戦あっての宮部という軍人であり、宮部はゼロ戦と一体化した存在であるはずなのに、そこが抜けているから、若い宮部は、まるで、遭難を警戒する熟練した山登りくらいの存在感しかもたないようなシーンもある。


宮部が誰かにゼロ戦の自慢をしたり、ゼロ戦について熱く語ったり、これさえあれば英米などどうってことないと豪語したり、ゼロ戦への愛着を語らせたり、…などといったシーンを入れるべきだった。

内容的に、この映画は、好戦的映画でもなく、軍国映画でもない。そういう批判がジブリや親韓の監督、評論家から出ているが、お門違いだ。

むしろ、宮部という架空の人物を得て、新たな道筋や題材をもって、戦争そのものは避けるべき、と、あくどくない方法で語っている。


そこに、映画というエンタメ性を盛り込めなかったのは、脚本と監督の力量不足である。いつかもう一度観てみたい、と思わせない作品となってしまった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。