映画 『紅塵』

監督:ヴィクター・フレミング、脚本:ジョン・リー・メイヒン、撮影:ハロルド・ロッソン、編集:ブランチ・シューエル、主演:クラーク・ゲーブル、ジーン・ハーロウ、メアリー・アスター、1932年(昭和7年)、83分、アメリカ映画、モノクロ、原題:RED DUST


邦題は紅塵(こうじん)で、原題そのままの訳だ。冒頭に砂嵐の吹くシーンがある。ベトナムあたりの砂は紅いのだろうか。

ジョン・リー・メイヒンによる舞台劇の映画化。そうと知らなくても、元が舞台劇であることは観ているとわかる。


ジーン・ハーロウの出る映画をまともに観たのはこれが初めて。ハーロウはこの5年後に若くして病死する。ゲーブルは、マリリン・モンローと共演し遺作となった『荒馬と女』まで活躍したが、やはり59歳の若さで病死している。

この作品は、1953年に、ジョン・フォード監督により、『モガンボ』という映画でカラーにしてリメイクされている。主演は、ゲーブルのほか、エヴァ・ガードナー、グレース・ケリーで、ジーン・ハーロウに当たるのがエヴァ・ガードナー、メアリー・アスターに当たるのがグレース・ケリーである。


この映画の舞台はインドシナ(ベトナム)のゴム農園で、現地人を使って働く男たちが主役であるが、『モガンボ』(1953年)ではアフリカが舞台となっており、ゲーブル演ずる主役は、野生の動物を売買して生活している。


4人の男女の愛の相克に焦点が置かれた作品だが、『モガンボ』はやや遠まわしな表現の心理ドラマになっているのに対し、こちらは、そのあたりはもっと明快で、さらに仕事現場を見せてくれることで、生々しく官能的な味わいがある。


同じ雨が降るシーンにしても、アフリカの雨と、東南アジアの雨とは、映画における効果が全く違う。日本映画における雨は、熱帯・亜熱帯とつづく延長にある温帯の湿気を伴う雨であり、映画の効果として、男女の情愛や官能に絡めて、好んで使われる。欧米の映画における雨の使い方と、おのずから違っている。

もともとが芝居であるから、会話が何かと行き届いている。英語のわかる人は、英語のニュアンスを聞いたほうがいいだろう。


ただ、なにぶん当時のものなので、ストーリー自体に遊び心が見られるわけではない。

デニス(クラーク・ゲーブル)が主役として人妻に惚れるのだが、ラストはヴァンタインとの笑顔のツーショットで終わる。先に登場するのも夫妻ではなくヴァンタインだ。

ヴァンタインは、デニスが自分に振り向かないことを我慢し、その上、ゲーリーにも、バーバラとデニスのことを告げ口するわけでもない。

しかしいずれにしても、いつも室内をうろうろしていて、いろいろなことを見聞きしている。最後には、ついていい嘘をつき、デニスの心を手に入れる。実質上の主役はヴァンタインだ。


鬱蒼とした原始林を舞台に、雨のふりつづく中、湿った住居で、しばしの日数のなか、繰り広げられる恋愛劇である。

そういう雰囲気が如実に伝わる。ほとんどがセット撮影だろうが、演出や照明がうまい。

基本から鍛えられた人間がつくる映画といのは、特別な手段や技法がなくても、安心して観ていられる。

古い映画というのは、そのあたりに人気の秘密があるのだろう。

この映画には、ゴムの液を採るシーンや、ゴムが瞬間的に出来上がるシーンなども入れてあり、映画のリアリティにひと役買っている。


愛憎ものの基本は、AとB、CとDが夫婦か恋愛関係にあって、そのうちBとCが仲良くなるが、いろいろあった末に、やがて双方とも元の鞘(さや)に戻るか、どちらかだけ元通りになるか、双方ともばらばらになるか、である。

この基本的展開に、いろいろな肉付けをしていくわけであり、映画はさらにこれを映像化する。

この映画も、いかにも典型的な展開を見せるストーリーだがそれだけに安心して観ていられるありがたさがある。


それにしても、実際には若い彼女らが、いま見るとベテランの演技をしている。邦画でもそうだが、かつての時代の映画に出ている女優や俳優は、いまの20代俳優に比べて、落ち着いて演技している。人間としても大人だったのだろう。


撮影時、21歳のジーン・ハーロウは、プラチナブロンドのままで、眉を抜いて一本の線で描いている。目と口の化粧も独特だ。スタイルもそれほどいいとは思えず、顔も美人の部類ではないが、当時人気を得ていたゲーブル(当時、31歳)を相手に、おじけることなく堂々とした演技を披露している。

生きていれば、ゲーブルほどの俳優として活躍しただろう。そして、映画界のご意見番として、喝を入れるような立場になってほしかった。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。