映画 『消えたシモン・ヴェルネール』

監督・原案・脚本:ファブリス・ゴベール、撮影:アニエス・ゴダール、編集:ペギー・コレツキー、美術:フレデリック・ラピエール、音楽:ソニック・ユース、主演:ジュール・ペリシエ、アナ・ジラルド、2010年、93分、フランス映画、原題:Simon Werner a disparu...


映画は、ジェレミー、アリス、ラビス、シモンの順に、同一の時間を、それぞれの立場から描き出す。

これはちょうど、『エレファント』(2003年)や、『桐島、部活やめるってよ』(2012年)で使われた技法である。


同じ時間に起きている事柄を、交互に描く技法をクロスカッティングというが、古くは、スタンリー・キューブリックが『現金(げんなま)に体を張れ』(1956年)がある。この技法を使った映画としては、日米ともにその代表が上の二作だろう。

となると、どうしてもこれらの作品と比較してしまう。


この映画は、より一層『桐島…』に近い。

高校が舞台であり、あるクラスメイトが失踪し、周囲に混乱を生むという点で、極めて近い作風だ。

『エレファント』は、現実にあった高校内のライフル乱射事件を元にしており、誰かが失踪したわけではなく、誰か主人公役らしき人物があるわけでもない。特定の何人かに比重が置かれているが、その者たちはライフル乱射事件とかかわりをもつ者ばかりではない。


この映画でも、結果的に、シモンの失踪・殺害は、クラスメイトや教師とは関係がない。

違う人物から見た視点で、おもしろい映画技法なのだが、これを除けば、それほどの出来とは思えない。

『エレファント』は、高校生によるライフル乱射という事件が起こるについて、その周辺にいる高校生たちの姿を、淡々と描き出した。そこには、ガス・ヴァン・サントらしい演出が効いており、悲しげで重苦しい雰囲気を漂わせながらも、映画としてのエンタメ性は保っている。

『桐島…』は、ちょうどこの映画と、すべてにおいて似ている。『桐島…』はこの映画より後にできたが、エンタメ性担保という点で『桐島…』に軍配が上がるだろう。

別視点同時間描写という方法を使いながら、映画が進むに連れて、話の内容が展開し、ラストに向け収斂(しゅうれん)していくのだ。


これに対し、この映画では、そういった収斂は見られず、クラスメイトが疑ったように観客も疑った様々な噂やエピソ-ドが、実はそうではないという証明はなされるが、四人それぞれの視点を描いた先に、もうひとつ不格好なものが残されず、きれいに終わっている。

これは、きれいに終わるのをいいこととするか、余韻を残すほうがよいことであるのか、という、映画づくりに対する姿勢、あるいは、国柄の違いなのかもしれない。


噂というエピソードを、そうではないという証言で回収してあっさりしすぎてしまうのでは単調だと思ったのか、最後にシモンの葬儀のシーンを置いたのはよかった。

それも、葬儀そのものではなく、葬儀自体は終わり、ジェレミーらクラスメイトが、食事をするシーンとなっている。いわば供養膳の席とも言えるが、登場した生徒ひとりひとりの顔をナメるようにカメラで追っている。

シモンという同級生は亡くなったが、それに伴って湧いた噂は、みな嘘であり、それぞれに起こった出来事も、シモンの突然の死で、忘れ去られたかのような印象を与える。

このラストの一連のシーンがなければ、完全な駄作に終わっていただろう。


冒頭、死体を発見することになるのはクララであり、もともといっしょに外にでた男のクラスメイトは、パーティー中、クララに、二階へ行って二人きりにならないか、と誘っていたのだ。

クララは体調が悪いからと、暗に断って外に出たのである。

そのクララが、小便をするといって、森のなかで少し離れたところに行ったとき、死体の手を見るのである。

驚いて、死体がある、と言ってきたクララもそうだが、この男子の反応はこれでいいのか。このシーンの二人に、演出が効いていないのではないか。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。