映画 『危険なプロット』

監督・脚本:フランソワ・オゾン、原作:フアン・マヨルガ『El chico de la última fila(最後列の少年)』、撮影:ジェローム・アルメーラ、編集:ロール・ガルデット、音楽:フィリップ・ロンビ(英語版)、主演:ファブリス・ルキーニ、エルンスト・ウンハウアー(英語版)、クリスティン・スコット・トーマス、エマニュエル・セニエ、2012年、105分、フランス映画、原題:Dans la maison(家の中で)


ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は高校の国語の教師として、新たな気分で新年度を迎えたが、妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)の前で、提出された生徒たちの課題作文を読んでいるうちに、ほとんどの者が文章もろくに書けないことを嘆く。

ただそのうち、クロード・ガルシア(エルンスト・ウンハウアー)の文にだけは興味を示す。文章としてよいわけではないが、その内容とその展開の可能性に関心をもったからだ。


クロードは数学の不得手な友人ラファの家に行き、そこで勉強を教えていて、ラファの家庭の中のようすを題材に、自分の想像力を織り交ぜて、作文を書いているのであった。

ラファには両親がおり、彼らとも顔なじみとなるにつれ、両親のようす、特に母親エステル(エマニュエル・セニエ)のようすを、写実的に書くようにになる。


ジェルマンはクロードに文才があると見込んで、さまざまなアドバイスをほどこす。クロードの作文は、そのつど「à suivre(続く)」で終わり、ラファ家のプライベートなことにまで言い及びつつ、延々と続いていく。

やがて、クロードは、現実のなかでなのか虚構のなかでなのか、エステルに惹かれ始める。・・・・・・


クロードの作文は、当初、ラファの家にいることにより、それを元に、そこに見えるものをそのとおりに写実していくという、陳腐なものに過ぎなかったが、ジェルマンの忠告にしたがって書きすすめるうちに、自らの想像力で書くようになり、やがてラファ家の人々にも、そしてジェルマン夫妻にも、迷惑をかけるような事態を、引き起こしてしまうまでになる。


フランス映画のある流れには、かなりセリフで語らせるものが多く、この映画も、ほとんどセリフと、クロードあるいはジェルマンのモノローグが流れる。DVDには吹替えもなく、詩人や小説家の名前などもポンポン出てくるインテレクチュアルな作品でもあり、内容からしても一般受けするものではないだろう。

ただ、カメラを固定にしたまま延々と語り合うようなシーンはなく、セリフも短めで、セリフごとにカメラも動くので、疲れることはない。


冒頭、校舎の前に、ひとりクロードが立っていると、登校する生徒たちが徐々に増えてきて、カメラは早回しとなり、生徒の群れが一気に校舎内に消えていくというのはおもしろい。

それ以外にカメラワークにしても特筆するものはない。

ただ、ラストで、落ちぶれたジェルマンとクロードが公園のベンチに座り、目の前のアパルトマンを見て、そこに住まう人々についてアレコレ言う。そのまま夜になりアパルトマンのそれぞれの部屋に明かりが灯り、人々の暮らしをフレーム一杯に見せる。このアイデアは、この物語のラストとしてふさわしかった。


友人とはいえ、人の家のなかを覗くような感覚で書かれたクロードの文章は、それ自体美しい虚構であっても、現実とはまた別ものであることを暗示している。

このほとんどあたりまえのことを、一本の映画に、プロセスとして描き出した監督の手腕は、たしかに評価されていい。


一種サスペンス調の作品であり、多くが室内劇であることからして、ふと思い出すのは、ミヒャエル・ハネケの『隠された記憶』(2005年)である。この作品は、あそこまでエグいものではない。

一高校生がその特異な才能を、その教え手に対しても挑戦的に発揮するという視点はあまり例を見ず、ジェルマンにとっては自ら撒いた種により、いわば自らの現実世界の崩壊を招いたことになり、職を失い妻は去ってしまい、それはそれで悲劇であるにもかかわらず、じめじめさせないで終わるところも一つのセンスだ。

作中のコトバをもじって言うなら、虚構という水面(みなも)で、かろうじて踊り続けるのが現実なのだろう。


カメラワークそのものに特別なものはなくても、やはりパリが舞台でもあり、ジェルマンの妻ジャンヌの経営する画廊の風景や、ラファの家に飾られた絵など、映画全体の雰囲気醸成にひと役買っている。

画廊に並ぶ奇妙な作品が映るシーンでは、思わず噴き出してしまう。


ビジュアル的にも、クロードを演じたエルンスト・ウンハウアーは、知的な表情をもつ整った顔立ちをしており、このみずみずしい雰囲気を漂わせる少年だからこそ、書き継がれた文章にジェルマンは興味をもち指南してしまう。

しかしまたクロードのジェルマンに対する意地の悪さにも納得してしまう。


これに対し友人のラファはお笑い芸人のようなおもしろい顔をしている。

ある意味、主役クロードという少年のキャスティングにも左右される内容で、これが頭の悪そうな醜男(ぶおとこ)では、作品として成立しなかっただろう。

オゾンは自ら同性愛者であると公言しているが、同性愛的美学の花開いた作品とも言えよう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。