映画 『ヒート』

監督・脚本:マイケル・マン、撮影:ダンテ・スピノッティ、編集:ドヴ・ホウニグ、パスクァーレ・ブバ、ウィリアム・C・ゴールデンバーグ、トム・ロルフ、音楽:エリオット・ゴールデンサール、主演:アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、1995年、171分、原題:HEAT(警察、デカ、追跡)


内容は、犯罪のプロと捜査のプロとの対決であり、後半のハイライト、街中での銃撃戦を含めアクションシーンもあるにはあるが、それだけではない。

主役ふたりの個人的ドラマ、心理描写までも、映像で描き切っているところが他の追随を許さないものになっている。


ワルの親玉ニール(ロバート・デ・ニーロ)と刑事ヴィンセント(アル・パチーノ)のそれぞれの人間性や、ニールと恋人の恋愛模様、ヴィンセントと今の三度目の妻との愛憎、義理の娘ローレン(ナタリー・ポートマン)との信頼関係までが、映像と心理の流れのダイナミズムの流れのなかで、タイムリーに描かれるところがよい。

それも言葉でベラベラと説明するのではなく、フレームのなかにいる俳優の演技や立ち位置に対する演出でこなしているからいい。

言葉で説明したら映画でなくなる。


これはカメラについても言えることで、カメラワークにも充分な演出が効いていることが、そこここにうかがえる。カメラがかなり大胆に横に動くシーンもあるし、さりげないのだが普通はあまりこうは撮らないだろうというシーンもある。

ヴィンセントは妻にほとほと愛想を尽かされている。それくらい、寝ても覚めても仕事一途で、家に寄り付かないからだ。情報屋とも気脈を通じてネタをもらっており、立ち居振る舞いからしてもプロのデカなのである。


一方、ニールは、これも犯罪プロであり、つまらぬ現金輸送車襲撃だけではなく、このあとも貴重品倉庫を狙ったり、銀行を狙ったりと、大胆不敵である。

ニールは、黒幕ネイト(ジョン・ヴォイト)と連絡を取り合っており、本業を知った恋人をも説得して海外に高跳びしようとするが、銀行襲撃が失敗に終わり仲間が殺された原因が、元の仲間の裏切りによるものと知ると、せっかくの高飛びの寸前、空港わきにあるホテルにいるその男を、わざわざ殺しにいく。


これがもとで、ニールは高飛びもできなくなり、ついに、空港奥の空き地で、ヴィンセントとタイマン対決を迎えることになる。


脚本がすばらしい上に、内容を把握したカメラの動きがやはりすばらしい。顔のアップからヘリによる空撮まで、横移動からクレーンまで、遊び心を知っているベテランスタッフが終結しないと、こうはならない。カメラのくふうは、ここに書ききれないほどたくさんある。

内容は日本でいえば任侠映画である。任侠映画に恋だの愛だのを交差させると、とかく失敗する。お笑いならばそれでもいいが、こうしたシリアスドラマにあっては油断は禁物だ。

これは義理と人情の物語というより、むしろ義理と男のロマンといったほうがいいかもしれない。


この映画は、硬派のまま徹底的に攻めまくる。映画のつくりとしてもそうなっている。

一例だが、ヴィンセント夫婦が最初に映るのは、ベットシーンである。ただし二人とも、肩くらいまでが映るだけだ。つづくシャワーのシーンではヴィンセントが浴びるだけで、それも肩までしか映らない。たまに愛し合うが、妻の心は仕事の鬼となっている亭主からは離れてしまっている。


銀行襲撃が失敗し重傷を負ったクリスが、ようやく治り、長かった髪を短くし、別人のようになってから、妻シャリーン(アシュレイ・ジャド)のもとに行くが、やむなく別れるシーンは格別だ。喧嘩ばかりの夫婦であったが、心底愛し合っていたからだ。

警察の捜査の過程で、シャリーンの男友達とともに、あるマンションの上階に移り住む。そこには刑事たちがライフルまで持って隠れている。クリスを捕まえる罠だ。

それとは知らず、おびき寄せられたクリスは、車を降りて、ベランダに立つシャリーンのほうを見る。

シャリーンは、うしろに控える刑事たちに見えないように、手摺りの右手を、すっと左から右へと動かす。「来ちゃダメよ」という合図だ。クリスは引き返さざるをえない。クリスとシャリーンは、もう二度と会えない。

悪は必ずハンディを追う。


この映画のなかに、本筋とは直接関係のない話が挿入されている。

10代の黒人少女がカラダを売ったあと、ニールらから縁を切られたウェイングローに殺されるところだ。ひとりになったウェイングローの残虐さを印象づける狙いがあるが、このシークエンスは全体の進行のなかで、その後の流れに向けて映画を引き締めるポイントとなっている。

ハナの仲間の刑事ボスコを演じるテッド・レヴィンは、『羊たちの沈黙』で、例の変態を演じていた俳優だ。


ほとんどたいしたこともない役にナタリー・ポートマンを使ったのは正解だ。『レオン』での強烈な印象を、光背効果として狙ったことはうなずける。ローレンの登場はあまりないが、ヴィンセント夫婦の鎹(かすがい)の役になっており、その意味では重要な立場にいるからである。


冒頭の空気感もよく、編集もみごとである。映画魂を知っている人々が集まって、こういうものができるのだろう。

終盤の圧巻とされる市内の銃撃戦の撮影は一週間に及び、市警の理解と協力があって実現したという。こういうところは、日本も見習ってほしい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。