映画 『にごりえ』

監督:今井正、製作会社:文学座、新世紀映画社、原作:樋口一葉〔1872(明治5年)~1896年(明治29年)〕、脚本:水木洋子、井手俊郎、撮影:中尾駿一郎、編集:宮田味津三、音楽:團伊玖磨、主演:第一話・丹阿弥谷津子、第二話・久我美子、第三話・淡島千景、1953年、130分、モノクロ、第一話・約31分、第二話・約36分、第三話・約63分。


樋口一葉は、五千円札に描かれた女流作家である。とはいえ、24歳で結核により他界している。

これは、明治期の小説家・樋口一葉の短編小説を三本合わせたオムニバス映画である。ほとんど、原作に忠実と言われている。

これはおそらく、一葉が現実に見た明治のこの時代における、若い女たちの悲しい物語だ。


映像は、内容を自然にそのままを描いているものの、毅然とした姿勢で撮られており、定点長回し、モンタージュ手法、クローズアップ、スポットライトなど、映画の基本的技術だけでありながら、こうも神々しい絵ができあがるものかと驚嘆する。

それぞれの話に、それぞれに薄幸な娘が出てくる。


第一話。

身分の高い男のもとに嫁いだ女・せき(丹阿弥谷津子)が、夫に身分の低さをはじめ、いろいろと蔑みを受けるので、耐えきれなくなって実家に戻ってくる。最後は両親に説得されて戻るのであるが、夜道だからと人力車を拾うと、その車夫(芥川比呂志)は幼なじみであった。車を止めて、他愛のない話をしたのち、男は車を引いて去り、女は歩いて別れる。


第二話。

料理屋に奉公している娘・みね(久我美子)は、伯父夫婦から、大晦日までに返さなければならない金があるから、何とかならないかと頼まれる。大晦日まで言い出せず、当日も忙しいあまりに女主人(長岡輝子)に言い出せないところへ、勘当同様の先妻の道楽息子(仲谷昇)が帰ってくる。金をせびりにきたのだったが、両親から大枚を無心すると、帰っていく。

たまたま、女主人がある業者から取り立てた金を、掛け硯(かけすずり)にしまったのはみねであり、こっそりそこから二円を盗ってしまった。

しかし、あとでその掛け硯の抽斗を開けると、一切の金がなくなっており、息子の文字で、ここにあるものももらっていく、という手紙が入れてあった。

みねが二円を失敬したことは、誰にも知られなかった。


第三話。

遊郭で働くお力(淡島千景)は、その店一番の美貌と客あしらいで知られていた。そこへある晩、きちんとした身なりの男(山村聰)が現れる。何度か男が足を運ぶうちに、お力はその男に思いを寄せるが、ある夜、身の上話をする。

女郎のお力にも、かつて好き合った男(宮口精二)がいて、いまは別れていた。だが、男のほうは、ときどきお力に会いに、その店の前に現れるのであった。お力にはすでにうっとうしい存在であった。

その男は、妻子がありながら、甲斐性もなく、働きもせず、女房(杉村春子)になじられる日々が続いていた。夫婦喧嘩の末、女房は小さな男の子を連れて、そこを出ていく。


三つの話のあらすじは、こういったところである。


これら儚くも悲しい、若い娘たちの日常のありさまや苦労が、映像になることで、文字以上に見るだによくわかる。

三つの話の共通するのは、背景に身分の違いが鮮明に描かれているところだ。


明治という時代の底辺には、たくましくけなげに生きる貧しい女たちがたくさんいた。その一葉の日記風に綴られた小説は、みごとに映像に置き換えられている。

内容はそれとしても、映画としての品格を失わず、話にむだもなく、流れるようなカメラと演出である。いまだに、邦画の代表作に数えられるのも当然かと思う。


しかし、やはり、悲しい物語には違いない。

第三話で、お力の回想シーンがある。

貧乏な家の娘であるお力は、寒い晩に、お金をもらって、おかずを買いに行く。そのおかずといっても、おからである。

小さなカゴにおからを抱いて帰る途中、雪道で転んでしまう。少女は、雪と泥のなかに散らばったおからを、両手で掬ってカゴに戻す。

しかし、もうそれは食べられず、その場に立ちすくんで泣きじゃくる。そこへ、母親が迎えにくる。

この一連のシーンにセリフはない。転んでおからをカゴに戻す少女の姿と、その泣き顔のアップだけである。

このシーンは、全く何でもないように見えて、実に悲しいシーンだ。


これでもかこれでもかという不運の末に、なりたくもないのになってしまったのが女郎だった、とうわけである。おまけに、最後は心中する。


出演者でわかるとおり、その後有名になる俳優が、たくさん出ている。そういう俳優たちの若い頃を見られるのも楽しい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。