監督:ピエール・グラニエ=ドフェール、原作:ジョルジュ・シムノン、脚本:ピエール・グラニエ=ドフェール、パスカル・ジャルダン、撮影:ワルター・ウォティッツ、音楽:フィリップ・サルド、主演:アラン・ドロン、シモーヌ・シニョレ、1971年、89分、フランス映画、カラー、原題: LA VEUVE COUDERC(未亡人クーデルク)
1934年、フランスの田園地帯が舞台。
ジャン(アラン・ドロン)がいなかの道を歩いていた。バスが停まり、中年女性が大きな荷物を下ろしているところに通りかかったので、それをかかえ持って、その女の家に行く。荷物は鶏卵用の石油孵化器であった。
彼女クーデルクは夫を亡くしており、老いて耳の遠い夫の老父と、二人暮らしであった。男手がないため、彼女はジャンを家に置き、畑仕事などを手伝ってもらうことになった。放浪生活をしているジャンにとっても、それはありがたいことであった。
彼女の家は、船が通る川を渡ったところにある。そこには手動式の橋がかけてあり、船が通る時は上がっており、人が通る時は下げるようになっている。
川の反対側には、死んだ夫の妹夫婦が住んでおり、老父を引き取って、クーデルクの家を売り払おうと企んでいた。彼女はもと家政婦であり、夫婦からは蔑まれていた。夫婦には10代の娘フェリシーがおり、やや精神障害があるように見えるが、常に、誰の子かも知れない赤ん坊を抱いていた。
同居し、いっしょに仕事をするうちに、クーデルクはジャンに惹かれていき、やがてひと夜をともにするが、ジャンはまた、若いフェリシーにも惹かれていた。
クーデルクはジャンに人殺しの前科があり、脱獄して放浪していることを知ったが、追い出すわけでもなく、ジャンがフェリシーと仲良くしているらしいことを知ると、むしろいっしょにいたくなった。
そのころ、妹夫婦の密告で警察が動きだし、グーデルクの家を包囲しに来た。・・・・・・
いかにも、このころのフランス映画という感じだ。舞台も極めつけの農村部であり、クーデルクの家のつくりなど、古いというより懐かしさを覚えてしまう。
すべて木でできた衣装ダンスやテーブル。アルコールランプ、歩くたびに軋む階段など、設定がよい。
冒頭と終盤近くに、長い空撮が入るが、フランスののどかな田園風景がまぶしいほどである。下ろさなければ渡れない橋や、ときおりそこを通過する船、わずかにカットとして挿入される景色、農機具、藁、牛など、スタジオセットではありえない味わいを出している。
原題は、そのまま訳せば、「未亡人クーデルク」である。なぜ、こんな邦題になったかわからないが、最後にジャンが射殺されてしまうことから、その内容を汲んだものなのだろう。クーデルクも、警察隊とジャンとの撃ち合いのさなか、銃弾を頭に受け、死んでしまう。
似たような作品に、山田洋次の『遙かなる山の呼び声』(1980年)がある。こちらの未亡人には男児があり、ときおり滑稽なシーンもあるが、本作は徹底して硬派の映画であり、おとなの女の心情に焦点を絞っている。
口髭を生やしたスーツ姿のアラン・ドロンが、埃の舞ういなかの一本道を歩いているファーストシーンからして、すでに周囲と違和感があり、ミステリアスな雰囲気を予言している。
よたよたと走るバスの後ろの座席ににクーデルクが乗っているが、ジャンをバスが追い抜いたとき、ふとジャンのほうを振り向く。荷物を運ぶことになるちょっと前のこのシーンに、二人の行く末が暗示されている。
この映画のよいところは、田園地帯、跳ね橋といった背景からなるのんびりと流れる時間と、それらがすでに舞台装置や小道具として内容を演出していること、会話が最小限であること、そして、主演二人の名演技であろう。
ジャンの犯行について詳しく出てこない(それでいい!)が、人を殺し脱獄して逃げ回っているなかで、人助けをきっかけに、女性の親切や屋根のあるところにいる安心感を味わう。
次第に、自分より年上で、農家をひとりで切り盛りするその中年女性と懇ろになる。
アラン・ドロンとしては、難しい役どころだったかもしれない。
それ以上に、シモーヌ・シニョレの演技が抜群だ。
細かいねえ・・・
役に成り切っている以上のものがある。これは大したもんだ!
名役者ほど、カメラの怖さを知っているという。
音楽もタイムリーに甘美なメロディーが流れるくらいで、余計な効果音を排したのもよかった。
恋愛ものは決して好きでない自分としても、こうした心理描写中心の映画は好みである。
0コメント