監督:田中登、脚本:佐治乾、原案:長部日出雄、撮影:森勝、編集:鈴木晄、音楽:石間秀機、篠原信彦、主演:室田日出男、古尾谷雅人、1978年、96分。
これは、昔、映画館で観ただけなので、かなりのシーンを忘れていた。そもそも白黒だったような気がしたが、カラー作品であった。
ポルノというジャンルにしては、珍しく、キネマ旬報邦画ベストテンに入った作品だ。9位であったが、それでも大変な快挙である。日本アカデミー賞監督賞も受賞している。
埼玉県の川沿いにある地方都市が舞台だが、出演する若者のうちのひとりの実家は農家である。線路わきの工事現場で働くシーンも多く、団地ができたというセリフもあり、高度経済成長が背景にある。
二十歳前後の若い男三人は、地元のくされ縁仲間であるが、みなぐうたら息子であり、酒に明け暮れ、肉欲しか持ち合わせていない。その中心が背が高く、既に前科のある歌川昭三(古尾谷康雅)である。
ある日、三人は軽トラに卵が積んだまま放置されているのを見て、これを盗み、転売しようとしたが、それがばれて警察に捕まる。
しかし、卵の持ち主である男・江口泰造(室田日出男)は寛容で、かつての自分に三人の生きざまを重ね、被害届を取り下げ、それどころか帰りに、3人に焼肉まで奢る。
親に連れられて、昭三以外の二人が泰造の家に謝りに行ったとき、泰造の妻・技美子(黒沢のり子)を見かける。枝美子は色白であまりしゃべらぬ白痴美人であった。噂では、やや頭が弱いが、その「道具」は一級品と言われていた。・・・・・・
前半50分位までは、泰造と3人が仲良くなるまでで、事件らしいことが起こり、その雰囲気を漂わせはじめるのも後半になってからだ。
この両者の関係を、前半でじっくり描いておいたことで、後半の強姦事件が泰造なりの意味合いをもたせるのに役立っている。
なぜこの映画がキネ旬9位になったかは知らないが、おそらく私のもつ感想と同じだろうと思う。
無軌道な若者たち、自身もテキ屋上がりの中年男、それに従う寡黙で頭の弱いきれいな女、…こうした登場人物は映画にはいくらでもあるが、これらが、それぞれの生活感のなかで、実にリアルに絡み合い、そのリアリティがスクリーンという境を無視して、こちら側に伝わってくるのだ。
これは脚本の力もあるが、映画であり、やはり映像描写の妙に要因があると思う。
泰造の家も農家であり、枝美子が鶏にエサをやったり、死んだ鶏をつまみ出して毛をむしるシーン、泰造はまた漁師も兼ねており、川に投網して魚を捕えるシーンなど、それぞれの生活のなりわいがリアルにとらえられている。
また、遠くを行く列車、橋を渡る列車、安酒屋の並ぶ細い路地、静かに流れる川、アパートの部屋、泰造の家など、ロケをふんだんに使っている。
これらを活かすのはカメラだ。泰造と枝美子の媾(まぐわ)いのシーンで、一瞬、天井からのショットがあるが、それ以外はほとんどが、目の高さである。
目の高さで撮るというのは、一見、平凡で芸がないようだが、観客の臨場感を呼び、シーンに入りやすくする。違和感をいだくことなく、無意識のうちに安心して観ていられる。
酒盛りのシーンがよく出てくるが、ポルノ出身の絵沢萌子のシーンは滑稽だ。この人、決して美人でも何でもないが、スクリーン上での存在感は大きい。
実際にビール(麦茶かもしれないが、とにかく茶色い液体)を注いで、飲む。そこにセリフが絡まる。
『マルサの女』で、素っ裸で蒲団に仰向けに寝て「女はここに隠すんだ!ここは探さなくていいのか?!」とわめくオバサンだ。
ビールの匂いだけでない。汗の匂い、砂ぼこりの匂い、肌の匂いなど、画面の向こうから匂ってくるようなシーンの連続だ。
かつて、日本映画の個性は、匂いが伝わるような撮りかたが多かった。映画でありながら、リアルさを表現していた。夏場のシーン、セックスシーン、殺しのシーンなど、血や汗や金具の匂いが伝わってくるような映像が多かった。
ポルノ出身の監督や女優は、このへんのわざを、身をもって知っている。だから、その後、名監督になったり名脇役になって活躍できる者が多いのだろう。
泰造が、3人に強姦されて死んでしまった枝美子を、からだを洗ってやると言って風呂場に行き、石鹸で乳房や足の指を洗う。そして、これを抱いて湯船に浸かる。
いわば、泰造なりの、枝美子に対する愛の究極の姿なのである。
ここでも、愛していた、好きだった、などという陳腐なセリフはない。そんなセリフがあれば、それによりリアリティが遮られる。
途切れ途切れに、オマエは本当に美しいのう、と言うだけである。
映画はセリフだけではない、映像の連続である。
そのことを、今更ながら教えてくれもする映画だ。
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