監督:ジョージ・スティーヴンス、原作:セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』、脚本:マイケル・ウィルソン、撮影:ウィリアム・C・メラー、編集:ウィリアム・ホーンベック、美術:ハンス・ドライアー、ウォルター・H・タイラー、音楽:フランツ・ワックスマン、主演:モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー、1951年、122分、モノクロ、原題:A Place in the Sun
こんな映画も、かつてはテレビでやっていたのだ。それがなければ、知ったのはずっと後のことになるだろう。淀川長治氏の『日曜洋画劇場』でもやっていた。子供にとって、映画は、テレビで、一回しか、観れなかった時代だ。
貧乏で職のない青年ジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、伯父であるイーストマン社長を頼って、その会社に入る。
最初は工場で、水着の箱詰めというライン作業を、多くの女性従業員に混じってやっていた。そこでアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)と出会う。
豪華な社長の邸宅でパーティが開かれ、そこに招かれたジョージは、やはりそこに招かれて来ていたアンジェラ・ヴィッカーズ(エリザベス・テイラー)と知り合い、二人は互いに惹かれあう。
ジョージは、見たこともない上流社会の人々の仲間に入り、しかも、その中の一人アンジェラと恋に落ち、結婚話にまで進み、アンジェラは両親に引き合わせるという。
一方、アリスはジョージの子を宿しており、アンジェラのことも知り、結婚を迫るのであった。
かつて、アンジェラと遊びにきた湖に、今度はアリスを誘い、ジョージは二人でボートに乗り、湖の奥まで漕いでいく。・・・・・・
ジョージ・スティーヴンスは『シェーン』(1953年)『ジャイアンツ』(1956年)の監督であり、この作品と『ジャイアンツ』で、アカデミー監督賞を受けている。
エリザベス・テイラーはあまり好きではないが、その18歳のときの作品。すでに子役として有名であり、大人びた雰囲気を醸し出している。彼女はその端正な美貌から、多くの良作に恵まれた。運がいいというしかない。
この映画のころは、いちばん輝いている。
シェリー・ウィンタースは、『ポセイドン・アドヴェンチャー』(1972年)で、危機一髪のところで、潜水をして、みんなを救うことになるあのオバサンである。
『陽のあたる場所』で薄幸な娘を演じていた彼女が、晩年、パニック映画で、潜水シーンを披露するとは驚いたものだ。相当なおデブさんになっていたが、あの年齢(52歳)で数分間の潜水をし泳ぎ回るというのは大したものだ。
ジョージを調べるマーロウ検事はレイモンド・バーで、『裏窓』(1954年)の殺人犯であり、後にテレビの人気シリーズ『鬼警部アイアンサイド』で主演を務めた。アメリカ人にしても体格が大きく、目がギョロリとして、どう見ても悪役が似合うが、のちに、車いすの弁護士役に抜擢される。
目がギョロっとした強面で、悪役から刑事の役にイメチェンして成功した例では、『刑事コジャック』のテリー・サヴァラスがいる。
どちらも、中高生のころ、テレビで見ていたシリーズだ。
この映画の冒頭は、ジョージがヒッチハイクをするシーンから始まる。
貧乏青年が、野心をもち、やがて上流社会に交わり、そこの令嬢を恋に落ち、それまで付き合ってきた女を殺してしまう……こんな話はたくさんあるが、この映画はその始まりとでも言えよう。
細やかな演出などはあまり見られず、むしろ、当時の美人スター・美男スターを主演にすることで、単純明快なストーリーに色付けしたような感じとなっている。
しかし、それぞれのシーンはきれいに切り取られ、映像にムダがなく、計算されつくしている。また、そのシーンでも、映像が美しい。
そして、ここには、戦後アメリカにおける、出世を是とする社会観のようなものも、背景として感じられる。
ジョージの母は、遠くにいて、布教活動などをしており、どちらかと言えば、社交界でジョージは口にするのを避けている。そうやって生活をしてきた自らの生い立ちを恥じているのである。
この映画はモノクロである。『第三の男』が、モノクロであるべき映画であるのに比べ、これは陰影を楽しむ映画というわけでもないが、カラーで撮れば、むやみに華やかな映像ばかりとなり、ジョージの屈折した心理を描写するには、色の多さは邪魔になっただろう。
現タイトルそのままの邦訳もよかった。陽のあたる場所がジョージの望む上流社会であるなら、その陰の部分は、ジョージの生きてきた道であり、アリスと過ごしたと彼女のアパートでのささやかな時間である。
ジョージは、実際にはアリスを殺していないのに、有罪となり、死刑場に向かうところでラストとなる。
なぜ控訴しないのか、なぜ、もっと強く否定しないのか、…裁判ものの映画だとしたら、疑問は残る。
ただ、殺そうと思って、アリスをボートに誘ったのは事実であり、それは本人も認めている。実際に殺さなくても、殺意を抱いていたのだから、人間として有罪にならざるをえない、というように話を収めている。
このあたり、今から観ると多少違和感が残る。こうなると、脚本か、それをそのままよしとしてつかった監督の世界観の問題なのだろう。
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