映画 『パレード』

監督・脚本:行定勲、原作:吉田修一、撮影:福元淳、編集:今井剛、音楽:朝本浩文、主演:藤原竜也、小出恵介、貫地谷しほり、香里奈、林遣都、2010年、118分。


特に、何がどうなったという一貫したストーリーがあるのではなく、アパートに同居する5人にまつわるエピソードをそれぞれに描いて、若者たち、あるいは、人間一般のつながりの深さ・浅さを描いている。

進行中のエピソードそれぞれが、ぶつ切れに見えながら、微妙に同居人である相手や、その他の同居人の思考に関連していくさまがおもしろい。


4人それぞれの説明はなく、物語が進むにつれ同時進行でわかってくるようにした演出がよい。否応なく引き込まれるからだ。それだけに初めのうち、やや退屈に見える人もいるだろう。

5人いながら、そのうち、AがBと対話するシーンが多いが、Aが今度はCと話すときは、Bについて違うことを述べていたり疑心暗鬼になったり、同じくまたAがBと話すときも、場面が違うと、正反対のことを言っていたりする。


やがて、最終的に、それぞれの事情から、4人はこのへやを出ていくことになり、取り残されたのはいちばん年長の直輝(藤原竜也)だけになる、と思いきや、実はそうでもなく、ラストにはみんなが一堂に会するのである。


極めて日常的なシーンばかりを撮りながら、その実、5人によって出来上がったアパート空間という虚構世界が創られる。物体としてアパートではあっても、その世界は、5人が、二人ずつ、三人ずつ…そして5人全員で築き上げた仮想宇宙になっている。

しかし彼らにとって、この宇宙空間は、それなりに快適であり、安心して寝転がっていられるようなホームなのである。


象徴的なセリフがある。転がり込んできたサトルに、琴美がいう。

「このへやは、いわば、ネットでいうチャットみたいなもんだ」

つかず離れず、互いに干渉し合わない程度に理解し合っていることで、4人でできる世界は維持されている。

これに対しサトルが返す。

「じゃあ、うわべだけの付き合いってわけだ」


こういった種類のセリフが随所に散りばめられ、そのやりとりは興味深い。映画というより、アパートを舞台とした舞台劇のようだ。

実際にこのあと舞台版も披露され、行定自身が演出をしている。


セリフに頼る映画は好きでないが、ここで交わされる言葉は、話し言葉として短く、対話として投げられるので、映像の動きと相まって退屈はせず、むしろ、言葉の恐ろしさ、証拠としての言葉から浮かぶ人間関係の疎密を、そのときどきの出演者の表情からうかがうことができる。


身柄として同居していても、実は互いに知らないこともあり、同じ人間に対してもAとBでは違う判断をする。そして、あまり深く入り込まない程度の距離を保ちつつ、ある程度依存しあう虚構世界としての日常生活は、各人に起きるそれぞれのできごとによってアパートを出る、つまり独立しようと決心したとき、崩壊していく。


パレードは、周囲に足並みをそろえて進んでいくものだが、それぞれが近づきすぎたり飛び出したりして歩けば、見苦しくなる。タイトルはそんなことを象徴しているのだろう。


この作品は、現代の若者を描いているが、どこにでも出来上がりそうなことでもある。


この映画では、名前がよく呼ばれる。単に、目の前の相手を呼ぶときだけでなく、AのいないところでBやCが話すので、両者からAの名前が出る。

単なる呼称ではなく、その名前が、仮想宇宙の住人であるかのように聞こえる。


登場人物の名前は、進行中に突然出てくる。後から加わるサトル(林遣都)以外は確かに漢字の名前なのだが、アパートでは4人は、ナオキさん(直輝、藤原竜也)、ミライさん(未来、香里奈)、コトちゃん(琴美、貫地谷しほり)、リョウスケ(良介、小出恵介)として存在している。


互いに知らないことが多くても、相手が何をしているかには関心がある。AがBの秘密を知り共有することもあり、CがDを覗き見るということもある。ヒッチコックの『裏窓』(1954年)のように、他人を覗く・他人のものを覗くというシーンも多い。


そして、5人の中心に位置し、いちばん頼りがいのある直輝の、決して覗かれなかった秘密が、突然露見したときも、他の4人は、その宇宙の法則によって、やはり快適な同居生活を維持しようと、直輝が抜け出ることを許さないという視線を、直輝に送る。

このラストシーンで、4人が直輝に向ける厳しい視線は、仕出かしたことを責めているのではなく、直輝が自首することで、彼が5人の棲む宇宙空間から逃れ、それによりこの5人の世界が崩壊するのを防ごうとする視線なのだ。

ここに、この作品の個性がある。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。