映画 『象の背中』

監督:井坂聡、原作:秋元康、脚本:遠藤察男、撮影:上野彰吾、編集:阿部亙英、音楽:千住明、主演:役所広司、今井美樹、2007年、124分、松竹。


不動産会社の幹部社員、藤山幸弘(役所広司)は、末期癌を宣告される。延命治療は受けないことにし、残された半年を「死ぬまで生きる」決意をする。

残された半年を、妻・美和子(今井美樹)、大学生・俊介(塩谷瞬)、高校生・はるか(南沢奈央)と過ごすようすを描く。


幸弘は、それまでの人生にかかわった人々、初恋の人、高校時代の悪友などに会い、病いが重くなってくると、海岸にあるホスピスに移り住む。

幸弘には愛人・青木悦子(井川遥)もおり、一度、ホスピスにも訪れる。美和子は何もかも承知したが、丁寧な挨拶をする。

海岸での一家のようすを最後に、幸弘の死が暗示されて終わる。


象は、死を予感すると、ひとり群れから去っていくという。かつて仕事でかかわりのあった人物(笹野高史)から聞いた話だ。それがタイトルになっている。

しかし、俺はそんなことはできない、とラストに幸弘のモノローグが入る。


幸弘の兄役で岸辺一徳が出ている。岸辺一徳は他の映画でも、脇役として高く評価しているひとりだ。


一家の大黒柱が不治の病いとなる家族の話で、題材としてよくあるものだ。

このテーマの映画に、なぜ主役の愛人を登場させたのかは定かでない。女性からの反発も多い。原作をそのまま描きたかったのかも知れない。描くにしても、もっと他の描き方にするアイデアが脚本になかったのか。同情しやすいテーマであるのに、これだけで評価が下がるのは予想できたはずだ。それを承知で、そのままにしたのだろう。


女性陣によるこうした批判だけではなく、せっかくの内容のわりには批判が多い映画だ。愛人の存在だけではなく、役所広司の演技はいいのだが、妻をはじめ、彼を取り巻く周囲が、みなとても理想的な人物や判断ばかりを下し、歯が浮いたような印象である。つまり、やりとりの描き方が軽いのだ。

死を宣告された男の理想を描いただけ、とこき下ろされても仕方ない気がする。


こういう批判をしやすくしている要素に、いくつかの原因が探れる。

海に面したホスピスもそうだが、幸弘の自宅は豪華な一戸建てで、それぞれの室内も広々とし、LDKや、食器などセットの置物がみな高級感をもち、それが住んでいる人間に馴染んでおらず、人間の生活の現場というにおいが伝わらない。


妻が実に善良で、これこそ妻というもの女性というものの亀鑑であるかのように描かれすぎて、夫婦らしさが感じられない。息子と父、娘と父との関係も同様だ。

そういう役柄ですよ、として登場しているだけで、他人が同情しているようである。


黒澤明の『生きる』に比べるのは残酷だろうが、人物描写や人物間の関係、演出など、到底それの足元に及ばない。

しかしまた、死というものが、はたから見れば、世間には日常的にあることでもあり、その道筋をあっさりと描いたというのであれば、その意味での映画としてのエンタメ性は保たれているだろう。


この映画には、一か所感動的なシーンがある。

ホスピスに幸弘の兄が尋ねてくるところだ。夏でもあり、二人並んでスイカを食べながら、役所広司と岸部一徳が話すシーンである。現在のことや過去の出来事を語り合うところで、カメラは極めてゆっくりと二人に近づきながら、ここは長回しのワンシーンとなっている。

おそらくこの映画のなかで、最も人間らしい会話が交わされ、人間そのものが現われるシーンだ。


理想的な人物と、理想的に下される周囲の判断に囲まれ、幸弘は幸せな半年を送った。

虚構の世界のできごとでもあり、こういう描き方があってもいいかもしれない。

映画としてサラリと見る分にはよいと思う。


渡辺謙・樋口可南子主演の『明日の記憶』(2005年)はアルツハイマーをテーマとした映画だが、人物の描き方、演出についても、差がついてしまった。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。