映画 『普通の人々』

監督:ロバート・レッドフォード、原作:ジュディス・ゲスト、脚本:アルヴィン・サージェント、撮影:ジョン・ベイリー、編集:ジェフ・カニュー、音楽:マーヴィン・ハムリッシュ、主演:ティモシー・ハットン、ドナルド・サザーランド、メアリー・タイラー・ムーア、1980年、124分、原題:Ordinary People


ここに登場する三人の家族が、「普通の人々」なのかどうかは、観てからわかることなのだと思う。

この映画については、観ていない人には、その内容の一部も漏らさないほうがいいとは思う。何も知らずに観ていかないと、この映画のよさはわかりにくいと思うからだ。

だが、しかたない、少し内容に触れざるをえない。


イリノイ州の邸宅街に住むジャレット一家は、ほどほどに裕福であり、父・カルビン(ドナルド・サザーランド)、母・ベス(メアリー・タイラー・ムーア)、次男・コンラッド(ティモシー・ハットン)と、一見平和な暮らしをしている。

しかし、家族には、長男を事故で失ったという忌まわしい悲劇が、常に、そしていつまでも尾を引いている。


コンラッドは、ヨットでの事故のとき、一緒にいたのに救えなかったという自責の念にとらわれており、何度か自殺を図った形跡もあり、両親の了解のもと、精神科のカウンセラー・バーガー医師(ジャド・ハーシュ)のところに行き、問答によって、治療を試みることになる。

カルビンは、おおらかな気持ちで、妻や息子に接するが、ついついコンラッドの悲しみに理解を深くしようとするため、ベスからなじられている。

ベスは、コンラッドを大事に思いながらも、亡くなった長男の思い出に執着するあまり、コンラッドを疎んじ、カルビンと夫婦二人の水入らずの時を求めようとする。

彼女は、友人のパーティやゴルフなどに夫婦で出かけながら、常に長男の死と次男への凍りついた感情に支配され、夫といても快い時を過ごせない。・・・・・・


俳優であるロバート・レッドフォードが監督を務めた作品で、長男の事故死に起因する家族の崩壊を描いた異色の作品だ。

テーマとして重くシリアスであり、一片の笑いなども挿入されず、ひたすら、三人の心の葛藤と彷徨を描いている。

こういうテーマを映画にした動機はいろいろあろうが、揺れ動く家族三人の心理に、充分に入り込んだ脚本と、丁寧な進行によって、好感をもてる作品となった。


ベテラン俳優、ドナルド・サザーランド、メアリー・タイラー・ムーアに加え、登場シーンの多いティモシー・ハットンが、難しい役をこなしている。

何度となく出てくる、コンラッドとバーガー医師の対話治療のシーンは、コンラッドが少しずつ胸の内を明らかにする過程であり、ようやく本来のコンラッドを取り戻していくのに必要な時間・空間である。

コンラッドの友人や、彼らの属する水泳部、彼のガールフレンドとのやりとりなど、周辺に起こる出来事を散りばめながら、彼のもがく姿の変容をも、うまく描写している。


ついに、最後まで、特別な解決をみることなく、お決まりのハッピーエンドではないラストをむかえる。

ハッピーエンドが用意されれば、映画としては単純な創作になるが、あえて、救われないままとすることで、かえってこれが「普通の人々」の現実なのだろうと頷いてしまうのだ。


ファーストシーンはきれいな海が映り、続いて、美しい秋の風景や彼らの住む街のカットが出され、コンラッドたち高校生の合唱風景へと至る。

このすがすがしい光景や、一見何気ない学校のクラブ活動から一転して、コンラッド家のなかは異様であり、その落差が興味深い。


冒頭で、父に呼ばれ、ようやく二階からコンラッドが下りてきて、朝食のテーブルにつく。

元気がないので、父親が朝食は大事だと激励するが、コンラッドは食欲がないという。すると、母親は彼に用意されたトーストの皿をすぐに下げて、それを生ごみ入れに投げてしまう。

内容を知らずとも、始まりにおかれたこの異様な朝の風景に、この一家が「普通でない」ことが誰の目にもわかるシーンだ。


やがて少しずつ、その原因らしきものが、明らかにされていく。

終始一貫して暗い内容であるが、家族を取り上げた映画として、しかも、残された家族がその悲劇から逃れようなく戸惑い、感情をぶつけ合う映画として、あまり類を見ず、大胆な挑戦を試みた作品である。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。