監督:アルフレッド・ヒッチコック、脚本:ジョン・マイケル・ヘイズ、撮影:ロバート・バークス、編集:ジョージ・タマシーニ、音楽:フランツ・ワックスマン、主演:ジェームズ・ステュアート、グレース・ケリー、1954年、112分、カラー、原題:Rear Window
事故に遭い、車イス生活を余儀なくされているカメラマンのジェフ(ジェームズ・スチュアート)は、自室から、カメラで向かいのアパートを「のぞき見」してひまつぶしをしていた。
ある晩、真向かいのへやの男が、深夜、スーツケースを持って出ていくのを目撃する。・・・・・・
妻殺しの犯人であるセールスマン・ソーワルドを演じるのは、その後TVシリーズ『鬼警部アイアンサイド』で、車イスの弁護士を演じて人気を博したレイモンド・バーである。彼はエリザベス・テーラー、モンゴメリー・クリフト主演の『陽のあたる場所』で、鬼検事の役を演じていた。
ジェフをマッサージしに通うステラはセルマ・リッターで、このころの映画には、よく脇役で見る顔である。マリリン・モンローとの共演も多いが、『拾った女』(1953年)では名演技を披露している。
ジャズ調でおどけた感じのテーマ曲を作ったフランツ・ワックスマンは、『私は殺される』(1950年)、『サンセット大通り』(1950年)、『陽のあたる場所』(1951年)で知られ、ヒッチコックの『レベッカ』(1940年)、『断崖』(1941年)でも音楽を担当している。
サスペンスには、美人・ヒマな男・刃物が付きものだが、この映画もそうである。
この映画の特徴は、一部例外のシーンを除けば、一幕もので、ジェフの室内だけが舞台となっている。
しかし、同じワンステージものの『ダイヤルMを廻せ』(1954年)と違って、そのステージで殺人が起こらず、起きるのは向かい側のアパートであり、このメインステージは、むしろ観客席となっている。
ジェフの視線すなわち観客の視線であるところが、この映画の個性だ。
セリフにも出てくるように(peeping Tom のぞき見する人)、ジェフはその退屈な毎日を、近隣のアパートののぞき見で楽しんでおり、それだからこそそれぞれの住人の特徴をよく知り、妙に違和感を覚えたことが、彼に殺人事件への疑いをいだかせるのだ。
タイトルバックからして、ブラインドが上がり、まさしくこれから舞台が始まりますよ、というわけだ。
中盤で、今日の舞台はこれでおしまい、と言いながら、ブラインドを下ろすリザのセリフもある。
もう一つの特徴は、ジェフのへやから見えている近隣住人には、一部例外を除き、ほとんどセリフがないか、または、距離があるため、言葉までははっきりと聞こえない。ミス・ロンリーハートとニックネームをつけられた独身の中年婦人は、パントマイムを演じている。
ジェフやリザが、ストーリーの上でも主役であって、相手側からの視線というものはなく、一方向である。犯人がジェフを睨み、ジェフのへやにやって来たとき、その一方向性が初めて破られる。
ヒッチコック一流の小道具の使い方、カメラアングル、照明の使い方など、実験的でありながらもその演出は効果的で、サスペンスにしては大ヒットとなった。
実に大衆的で人気の高い映画であり、グレース・ケリーの美しさは目を見張るものがあり、セリフもくふうの跡が見える。
私も好きな映画ではあるが、『めまい』(1958年)や『サイコ』(1960年)ほどではない。
物語を「色づけ」するためと思われるが、この映画は、ジェフとリザの恋の駆け引きに始まり、そのシーンで終わる。この恋愛を中央に据えたために、サスペンス色のほうが色褪せたように思うのだ。
しかし、この相思相愛があればこそ、リアが犯人のへやに忍び込み、すんでのところで犯人と格闘するところでは、身動きのできないジェフの心配や恐怖は、いっそう掻き立てられたと思われる。
細かいところで、ハラハラ感を味わわせる演出はみごとだが、それにしても事柄が並列的につなげられていく展開であり、やや退屈感を免れない。舞台設定に無理があるのか、脚本に無理があるのか、というより、大前提となるストーリーの設定自体がそうさせるのだろう。
『めまい』『サイコ』『北北西に進路を取れ』(1959年)などのように、進んでいく方向がわからず不安である、というサスペンスの大枠がないのだ。あたかも『家政婦は見た』の域を超えないのだ。
犯人らしき人物は、すでに手のひらに乗っており、あとは証拠をつかむだけ、という設定であり、とりあえずすべてが「視野」に収まってしまっているところに、はじめからサスペンスとしてのハンディがある。
やはり、ワンステージものの制約自体からくる、やむをえない性質のものなのだろう。
俳優はそれぞれ顔の演技などもみごとだけに残念である。
それでも魅力ある作品だと思う。
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