監督:ヤン・デ・ボン、脚本:グレアム・ヨスト、撮影:アンジェイ・バートコウィアク、編集:ジョン・ライト、音楽:マーク・マンシーナ、主演:キアヌ・リーヴス、デニス・ホッパー、サンドラ・ブロック、1994年、115分、原題:SPEED
映画ファンのみならず、広く人口に膾炙した映画だ。
身代金を奪うために路線バスに爆弾をしかけた犯人と、そのバスに乗り込んだスワット警官との対決を、スリリングに描いたノンストップアクション映画。
俗に、アメリカ映画には、カーチェイス・爆発・セックスという3つの定番シーンがある。人目を引くのに欠かせないシーンである。
この映画にはセックスシーンはないが、キスシーンはラストに用意されている。
危機的状態で知り合った男女の仲は長続きしない、などと唐突なセリフが出てくるのも、ラストに向けての伏線である。
高尚なテーマがあるわけでもないかわりに、万人に共通のシンプルな要素に徹して、ここまで徹底的にアクションにこだわると、かえってその特化のしかたに感嘆する。
次々にハラハラする要素を連続させ、手に汗握るシーンをイヤミなく連続させ、興行的にも大成功した。
アクションは、他の映画より、さらに捨てるフィルムが多い。カネをかけて長回しで撮っても、編集の際にには、そのほんの一部のカットだけが使われ、それをつないで出来上がるのだ。
特に、モノが主役の映画ではなおさらだ。この映画では、同じ型のバスが10数台用意されたという。
ストーリーは単純であるが、メインの舞台がバスというのも変わっている。列車や飛行機の乗っ取りはよく使われるが、バスというのはあまりない。
脚本のグレアム・ヨストは、『暴走機関車』(1985年)の原案である黒澤明の脚本を読んで思いついたという。また、『新幹線大爆破』(1975年、監督:佐藤純弥)をモチーフにしたとも言われている。一定の時速以上を維持しないと爆破するというアイデアは、それまでの爆弾脅迫映画にはなかった逆転の発想だ。
出来てしまえば、どちらもそれなりの国柄が現われているところが興味深い。
本題に入る前、エレベーターでの騒ぎがあり、そのステップがあるために、バスの一連のシーンが締まってくる。終わりには地下鉄の暴走まであり、最初から最後まで、サービス精神旺盛な映画だ。
ヤン・デ・ボンは『氷の微笑』でも撮影監督をしている。カーチェイスのシーンは、あそこだけ見てもかなりきわどい撮影だ。これまでのこうした経験が、カメラにフルに生かされている。
突っ込みどころがないわけではない。
身代金をゴミ箱から奪う寸前、救急車から降りたアニー(サンドラ・ブロック)がハワード(デニス・ホッパー)に騙されて連れて行かれるなど、ストーリーつなぎとしか思えない。第一、ジャック(キアヌ・リーヴス)とアニーという二人のケガ人を載せた救急車が、なぜそのまま身代金受け渡し現場にいなければならないのか、ジャックはともかくもアニーは病院へ急行されるのではないのか……
しかし、それを感じさせるヒマもないほど、緊迫した展開で、ラストまで運んでくれるのだ。
これだけの事件を起こしたサイコ野郎には、それにふさわしい死に方が用意されていなければならない。そこが中途半端であれば、映画のなかでのバランスを欠く。
案の定、このイカれた犯人には、ストーリーにふさわし死に方が用意されていた。
こういう映画を観ると、モノを使ったアクションは、アメリカ映画にかなわないと再認識させられる。カネもかかっているし、見たこともないような車輌も登場する。映画のエンタメ性は余りあるほどだ。
それでも、あえて比較するなら、『新幹線大爆破』のほうに軍配を上げたい。
『スピード』に人間性の表現などを要求するのは無理というものだが、『新幹線大爆破』のほうは、アクション映画といえども、犯人側の人間関係や犯行に至るまでの経緯など、のっぴきならない社会と個人の関係までも描かれている。
そしてまた、善悪は別として、邦画には、派手さはなくても、どこかに美意識を見るのだ。そこが、野蛮で利己的な爆弾の国と、忍ぶことを知る誇り高き刀の国との違いなのだろう。
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