監督:シドニー・ルメット、脚本:デヴィッド・マメット、原作:バリー・リード、撮影:アンジェイ・バートコウィアク、編集:ピーター・フランク、音楽:ジョニー・マンデル、主演:ポール・ニューマン、ジャック・ウォーデン、1982年、129分、原題:The Verdict(評決)
シドニー・ルメットは『十二人の怒れる男』(1957年)でデビューし、社会派映画の監督と言われ、この映画も、まさしく、その延長線上に登場したと言える。
弁護士フランク(ポール・ニューマン)は、仕事も回って来ず、酒びたりの日々を送っていた。そんな彼に、先輩弁護士であるミッキー(ジャック・ウォーデン)が仕事をもってくる。
依頼人の女性によれば、その姉が、医師による出産時の医療ミスにより、植物人間になってしまい、その病院を経営するカトリック教会に、損害賠償を求めようとしていた。
教会は、自らの不名誉を避けるため、要求どおり大金を出して密やかに示談で済まそうとするが、病室で患者本人の姿を目の当たりにしたフランクは、正式な裁判にすることを決意すす。・・・・・・
巨額の示談金は、患者の妹夫婦も望むところであり、ミッキーもそれが狙いのケースだと言っていたのだが、フランクに、本来の弁護士魂が芽生えるシーンはみごとだ。
フランクも最初はそのつもりであり、21万ドルの示談金のうち3分の1を自らの報酬にすれば願ったりと思っていた。
ところが、患者の姿を見にいったとき、この意思表示も何もできない生きる屍と化した患者の姿を見て、その尊厳を、金だけで解決してよいものだろうか、と考えるようになる。
彼は、ベッドに横たわる患者の姿を、ポラロイドで撮る。ややあって浮かんできた二枚の写真を見つめる。廊下を通った看護婦が、ここは立入禁止ですよ、という言葉をうわの空で聞きながら、私は弁護士だ、とつぶやく。
この一連のシーンに音楽はない。その患者に付けられている人口呼吸器の音が、空しく痛々しく繰り返されるのみだ。
フランクが、裁判で、真実を追求することを決意した瞬間だ。この演出は、観ている側にじーんとうったえるものがあり、実に巧みである。
かくして、彼は事件を法廷に持ち込み、たとえ著名な医師といえども、その過失を明らかにしようとするのであるが、コンキャノンは名うての策謀家弁護士であり、スタッフも多く、フランクには、不利なできごとばかりが起きてしまう。妹夫婦にも、示談金を勝手に放棄したとなじられ、それでも、証人探しに奮起する。
ラストで、法廷上では不利な条件だらけのフランクが、12人の陪審員に問いかけるような最終弁論をおこなう。陪審員の判決が出たとき、フランクや妹夫婦だけでなく、観客をも嬉しさで感動させてくれる。
脚本そのものは、観ている通りでわかりやすい。それだけに、もうひと捻りあったらどうかと批判される。事実、裁判ものでは珍しく、アカデミー賞5部門でノミネートされながら、一つも受賞していない。
むしろ、ルメットの映画は、脚本で見るより、やはりカメラワークを楽しむ映画なのだろう。撮影そのものは撮影担当がやるのだが、その指示や演出は監督の仕事である。
こういう内容だから、ほとんどが室内である。カメラがゆっくり横に動いて、今まで見えないところが見えたり、固定カメラがそのままの位置で徐々にクローズアップしたり、とカメラは多彩である。近寄ってセリフを拾ってもいいところをわざと遠くから撮ったままにしたりもする。ルメット作品のカメラは、そのまま言語表現である。
法廷で、コンキャノンが、若い女性の証人を反対尋問するときも、カメラはその証人のうしろから向こうにいるコンキャノンをとらえ、彼がこちらに歩いてきて、女性証人を見下ろして尋問を始めるところまでワンショットであり、老獪な弁護士による若い女性証人に対する圧迫感を、そのままカメラが描き出している。
フランクになじみのバーは、ファーストシーンから出るが、夜のシーンでは、フレームのなかには、赤いランプもあったりして、法廷ものという話全体のなかに、うまく色彩を取り入れている。
フランクの先輩弁護士ミッキー役のジャック・ウォーデンと、司教役のエドワード・ビンズは、『十二人~』にも出ていた。被告のタイラー医師は、『トラ・トラ・トラ!』で出演場面の多い海軍情報部のクレイマー少佐を演じていたウェズリー・アディ、陸軍のブラットン大佐を演じていたE・G・マーシャルも『十二人~』に出ておりキーパーソンを演じていた。
シャーロット・ランプリングも適役で、怪しい雰囲気を漂わせながら、フランクの友達になる薄幸な女を、うまく演じている。この彼女の役どころは、実はただの恋人ではなく、次第に良心の呵責にさいなまれる立場になるのであるが、このあたり、もう少し、よい意味でくどく描いてもよかっただろうと思う。でないと、準主役であり重要な役回りでありながら、脚本上これだけで片付いてしまうのでは、もったいない気がする。
やはり、ルメット作品は、フレームをどこまでで切るかをはじめ、カメラワークを楽しみながら観る映画だと思う。それがいちばん印象に残っているのは『モーニングアフター』(1986年)という作品であった。
映画づくりで、撮影を仕事にする人には、ルメットの映画はよいお手本になるだろう。
ストーリーの流れに置かれた一定のシーンについて、その演出を映像技術に表現しえてこそ、真の映画人だ。
この作品では、真実と正義が追求される。真実が勝つ、正義が勝つ、これは理想なのかもしれないが、現実はそうでもない。それゆえ、映画という世界で、それが実現するとなると、じわじわとしたカタルシスをわれわれ観客にもたらすのである。
余談だが、傍聴席に、まだ有名になる前のブルース・ウィルスの姿がある。この6年後に『ダイ・ハード』(1988年)で一躍有名になるが、このときは髪もふつうで、ちょっとわかりにくい。
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