監督:ジャン=ジャック・ベネックス、脚本:ジャン=ジャック・ベネックス、ジャン・ヴァン・アム、原作:デラコルタ、撮影:フィリップ・ルースロ、編集:マリ=ジョゼフ・ヨヨット、音楽:ウラジミール・コスマ、アルフレード・カタラーニ、主演:フレデリック・アンドレイ、1981年、118分、フランス映画、原題:Diva
ずっとDVDが出なかった映画だったが、ようやく30年ぶりに2011年9月に発売された。発売会社に感謝したい。
1981年ころといえば、それまで、日本に上陸したヒッチコックの映画リバイバル特集で、『裏窓』(1954年)や『めまい』(1958年)などを、上映館が変わるたびに都内を飛び回っていた。みんな今ではなくなった映画館だ。
そこにこの映画を観た。この映画に接して、自分は決定的に映画の虜になったといえる。まさに記念碑的作なのだ。
たまに観ても飽きがこない。30年前の映画であっても、新鮮さを失っていない。
映画を本当に好きかどうか、その踏み絵になる作品というものがいくつかあるように思うが、これはそのなかの一つであると思う。
内容は、ジュール(フレデリック・アンドレイ)とシンシア(ウィルヘルメニア・フェルナンデス)のほろ苦いロマンス、CDを出さない歌手の録音盤をジュールから奪おうとする台湾の業者、パリでの売春組織の秘密が録音されたカセットをジュールから争奪しようとする組織の一味、彼らを追う警察、それに、ジュールと親しくなるベトナム人少女(チュイ・アン・リュー)、彼女と同棲するゴロディッシュ(リシャール・ボーランジェ)、…これらが入り乱れて、ストーリーが展開する。
言ってみれば、多少アクションの入るサスペンス映画であるが、そうしたジャンル分けを内側から否定するような映画でもある。
入り乱れるといっても展開はすっきりしているし、むしろあっさりといった感じで混乱はない。進みも淡々と一定のテンポを保ち、急激でも遅くもない。会話も洗練されているし最小限だ。よくフランス映画にあるような、長くべらべらしゃべるシーンはない。
むしろこの映画は、映像を楽しむ映画だ。
アングルとカットは凝りに凝っており、その結果、どこを切り取ってもシュールでもありおしゃれでもある。挿入される一枚一枚の短いシーンでさえ絵のようなところも多い。
全体に、青を基調とした映像であるが、それぞれの色がどう映えるかも計算している。夜のシーンや室内シーンも、はっきりと明るいというところはあまりない。カーチェイスのシーンでも、ヘッドライトの光はぼやかしている。
セットもすばらしい。ジュールのへやは、ビルのロフトと言っていいだろうが、そこにはロールスロイスなどの廃車が何台か並んでおり、壁や床の絵も前衛的なアートになっている。ゴロディッシュと少女の住まうところも、だだっ広い空間に家具とてなく、バスタブ、洗面台、キッチンがあるくらいで、少女はローラースケートでへやの中を行き来する。
彼が、ラスト近く、売春組織の元締めと取り引きをする薄汚い廃屋も、元は何かの工場であったのだろうが、ロケ場所として、その状況にふさわしい空間だ。
海の近くの「城」と呼んでいる隠れ家もいい。ここは灯台なのだが、ケガをしたジュールを、ゴロディッシュと少女がかくまうところである。少女が、二つのリンゴを胸に入れてみたり、朝の光を浴びて一度服を脱いでみたりと、遊び映像のシーンもある。
このゴロディッシュという男は、巨大なジグソーパズルをしているが、話の展開につれ、いよいよ自分の出番というころに、この大きな波の絵のパズルが完成しているのは、粋な演出であろう。
小道具もいろいろ出てきて観ていて楽しくなるが、それが何かとストーリーの生む状況を暗示するメタファーにもなっている。
シンシアは黒人歌手であり、ベトナム人少女、サングラスの台湾人業者と国際色豊かであるが、音楽もバラエティに富んでおり、オペラのソプラノ、殺し屋の聴くパンクロックと、一方に偏しない。
シンシアのローブは、前半、一つのテーマとなるが、少女の着る服もファッションとして変わっている。
この映画で美しいといえるシーンは、夜明け近く小雨降るなか、ようやく明るくなり始めたパリの街を、ジュールとシンシアが徒然に歩くところだ。いくつかのカットをつなぎ合わせたところに、サティのけだるいピアノが流れる。
ベンチでの二人の座る向きなど演出が効いていてすばらしいし、唯一官能的なシーンでもある。ひとつの傘に、これほど映像的意味をもたせるシーンは観たことがない。
非日常的空間をのみ使い、エンタメ性をふんだんに盛り込み、ラストまでスリリングな雰囲気を持続させ、そこに、スタイリッシュにして甘美なやりとりを、セリフでなく、映像で表現することに成功している。
映画とはこれだ、と、自分に強烈な印象を与えてくれた逸品だ。
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